フランス旅行記 リヨン篇 4
ラファイエット通り
学校、学食と訪ねて、次はやっぱり下宿先へ行ってみよう。20代リヨン滞在中に下宿していたのは、ラファイエット通りにあるマダム・ゴーティエのアパルトマンでした。この通りはローヌ河からパーテューを横切って走る大きな通りで新市街にあります。パーデューにあるギャラリー・ラファイエットの前を通る大きな通り。スーパーもあるし、バスのターミナル、駅にも近く便利なところ。
学校から入学の許可が下りた時、リヨンでの住居についてはなにも手掛かりがなく、未定のまま。入学許可といってもなんだかあまりよく理解できず、「本校はあなたの入学をさまたげない」という文章が書かれていたのをおぼえています。これって、どういう意味なのか。「入学を許可します」というのならそのまま理解できるけど。なんかすべてが気難しそうだ。本の帯にあるコメントで「この本の推薦を躊躇しない」という言い方をしているのもみかけたことがあります。「この本を推薦します」といえばいいのにな、わかりやすいじゃないかと思うけど、「おすすめすることをためらわない」みたいに表現する。
住居については、「リヨンに到着後学生課をおたずねください」と一行あっただけで、具体的なことはなにも書かれていませんでした。ということはどうなるのか。どこに住めばいいのかな。とりあえずリヨンに行き、住むところはそれから決めるということなんだろう。
出発の準備をしていると、一般のおとなの人たちはこうたずねます「それで向こうで住むところ見つかったの?」しかしこういう状況なので「それはわからない」と答えると、「そんなことでどうするんだー!」という一言が帰ってくる。住むところもわからないような外国に行ってどうするんだ、そんなんでだいじょうぶなのか、という親心なのでしょうが、これから行こうとするところは、なんでもかんでもそろっているところじゃない。これから自力でいろいろ揃えていくということをしていくところなんだ。そう思ってもやはり内心ではどうなるのかなと思っていたものでした。
さて、リヨンに到着。2,3日小さなホテルに宿泊。学生課に出向いて必要な手続きをし、住むところを探していますと言ったところ、係りの人がメモを手渡してくれました。「こちらのご婦人のお宅に下宿するお部屋があるとのことなので、訪ねてみてください。」メモにはマダム・ゴーティエの住所。
マダム・ゴーティエ
マダム・ゴーティエの住所は、ラファイエット通りにあるアパルトマンの4階。訪ねて行ってみると高齢のご婦人が出ていらした。彼女がマダム・ゴーディエ。学生課からの紹介で下宿をさがしていますということで話をするとお部屋をみせてくれました。独立した一部屋。ベットも広いし勉強机もある。トイレとお風呂は共同。台所も使っていい。彼女は当時70代後半のご年齢。ご主人はまだ若くして他界され、その後一人暮らしをしているということでした。わたしのほうも自己紹介をして、二人で少し話をした後、彼女は明日もう一度きてほしいといいました。もう一度双方で話して決めましょうということに。
次の日彼女のアパルトマンを訪ねると、彼女の姪にあたる40代くらいの女性もいっしょにいました。マダム・ゴーティエはお子さんがおられないので、姪のアンが付き添っています。マダム・ゴーティエはこれまで2回倒れたことがあること、一度目はトイレで倒れていて、二度目はお風呂で倒れていたということを話しました。家賃はだいたいひと月2万円弱くらい。食事つき。門限は夜10時。10時までには帰宅すること。もし彼女が緊急事態になったら救急車をよんでアンにも知らせてほしい。
条件としてはこのようなもので、双方承諾の上ラファイエット通りでの生活が始まったのでした。後で知ったことですが、マダム・ゴーティエのところには何人も学生が部屋を見に来ていたのに、わたしが来たとき下宿人はこの人だと決めていたそうです。ここにも不思議な縁がありました。
↓ 下宿したアパルトマンの番地もそのまま
↓ この扉をあけて毎日学校へ行っていた。扉もそのまま
下宿での生活
下宿での生活は規則だたしいものでした。マダム・ゴーティエは朝かなり早く起きて朝食の準備。朝ごはんを食べた後、学校へ。夕方学校から帰ると彼女は夕食の準備をしている。そしていっしょにごはん。門限の10時というのはまったく気にならなかったほど。彼女はリヨン生まれのリヨン育ち。家族もずっとリヨンの人なので、最初はアクセントがききとれずなにを話しているのかわからなかったし、なかなか気難しい感じだったので打ち解けずにいましたが、それも時間が解決してくれた。彼女の作るごはんはとてもおいしい。それは豪華なものではなかったけれど、あたたかい家庭料理。朝のカフェオレも飲むと落ち着く。時々お菓子もつくってくれた。
当時、わたしはリヨン・シネクラブという映画の会に入っていて、学生の会なのですが月に1回か2回、名画座が開かれて結構夜遅くまでみんな映画をみていました。このときだけ門限の10時がまもれるかどうかという感じだった。
今日は友達とごはんを食べるので夕食はうちでとりません、といって学校へ出かけ、夜帰ってくると彼女はご機嫌ななめ。「ごはんつくってまっていたのよ」というので、あれ、朝出かけるとき話していったけどなあと思い、それからは朝ちゃんと話すこと、プラス、台所のボードに「今日の夕飯は外でたべます」と書いていくようになった。しかしこれでも彼女は夕方ボードを見るのを忘れてしまう。なので、夕方念のため電話して夕飯は外で食べるというというのが一つの流れになっていた。
日本に帰国するとき、励ましてくれ、きっといいことがたくさんあるから大丈夫と言ってくれたマダム・ゴーティエ。わたしが帰国して5年後に空へ旅立っていきました。
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