荒魂・和魂という文化〜祟り神になるかならぬか〜
昨日、久々に地面の底から湧き上がってくるような凄まじい怒りを覚えた。怒りの原因となる連絡をしてきた方にも、最大級に怒りをぶつけ、文句を言った。
あまりに頭にきすぎて、気がついたらそのまま寝てしまった(子供か笑)
人間というのは不思議なもので、一晩寝れば怒りは鎮まるものだ。
さっき、お風呂に入りながら、ふと、人間って、祟り神になろうとすればいくらでもなれる、と思った。
慎ましく日々の暮らしを立てている善良な市民が、ある日超絶理不尽な要求を叩きつけられる。もしくは、大切にしていた家族を奪われる。なぜ、自分がその要求を受けねばならないのか、なぜ、ささやかな生活のよりどころを奪われねばならないのか。
理不尽さに怒り、今までの自分の慎ましい生活はいったい何だったのか、と思うだろう。そうやって、人は昔から祟り神に、般若に、悪霊に変わっていったのだと思う。
例えば、菅原道真はその典型だし、「源氏物語」の六条御息所だってそうだ。平将門など、いまだに祟りと恐れられている。
日本人は古来、そういった祟り神を極端に恐れてきたような気がする。
そして、菅原道真のように神として崇めて、その怒りを鎮め、地の健全性を守ってきたのだろう。北鎌倉にお寺が多いのも、鎌倉幕府が成立する際、戦で敗れた人たちを鎮めるためだと聞いたことがある。
祟りや祟り神に関するエピソードは、今昔物語や能から、現代のサスペンスに至るまでさまざまに存在してきた。ある意味反面教師的に庶民を戒めてきたのだろうし、人の興味関心も高かったに違いない。
それは人だけではなく、自然全般に見られる性質とも言えるのかもしれない。
むしろ、人が祟り神になるかもしれないという両面性を携えているのは、自然の性質がそのようだからかもしれない。それは日本の神様にもみられる荒魂・和魂という考え方にも通じるように思う。
正しく付き合えば、優しく、助けてくれるが、付き合い方を間違えると、途端に乱暴になる。また、同じ神様でも、荒々しい面、優しい面の両面がある。
「風の谷のナウシカ」のオウムのように、何もなければ冷静でいられるのに、何か怒りに触れれば、途端に凶暴になる、というのも、そういった人も含めた自然の性質を表しているように思う。
しかしながら、理不尽は世の常。
私たちは、どんなに理不尽な状況にあっても、「もののけ姫」の乙事主(おっことぬし)みたいにはならぬよう、矢が飛んできても冷静に抜き続けるしかない。
荒ぶって無茶苦茶になるのではなく、軸が高速で回転するからブレないというのを「千早振る」というんだそうだ。(とさっきどこかで見かけた)
冷静に耳を澄ましてさえいれば、サンのように、助けてくれる声が聴こえるチャンスだってあるはずだ。
怒りは変化のチャンスとも取れる。
どうせなら、「荒ぶる」のではなく、軸のある「千早振る」を目指したい。
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