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「写実」は、どこまでリアルなのか

先日、「日本文化における写実という感覚について考えてみた」を投稿してみましたが、その前提として数年前、そもそも写実ってどんなことを表すのか、を考えたことがあったのを思い出したので、ちょっと書いてみようと思います。

見ている対象物のリアルさとは

春になったばかりのある日。

まだ小学生だった長男を連れて、久しぶりに海に行った。春の材木座は水は冷たかったが、春の空の色を反映して、すっかり穏やかなブルーになっていた。

その日はちょっと風が強かったので、通常より波は高かった。ザバーン、ザブーンとやってくる波に、長男は大はしゃぎで遊んでいた。

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その様子を見ていた時、ふと「自分が見ている波は、どこまでリアルなんだろう」と思い当たった。

この波の様子を撮影したものと、今、自分が感じている波を比べた時、どちらがリアルなのか。当然、撮影した写真の方がリアルに決まってるんだけど、本当にそうなんだろうか、と思ったのだ。

バイアスに支配される私たちのリアルさ

実は、人間の目は、見た物をそのまま完璧に再現はできないそうだ。(今日末っ子が教えてくれた)

自分の経験から脳内に出来上がっているバイアスを、見たものに掛け合わせて、像を形作っているらしい。

なのでおそらく、一個人の人間は、自分の「見た通り」と思い込んでいるリアルさ以上のものを感じることはない。

だとすれば、「写実主義」というときの写実とは、個人個人の中にある心象風景のリアルさであって、撮影された波のリアルさではないことになるだろう。

ということは極論、写真を撮るよりも絵で描いた方が、波はリアルに表せるのではないだろうか。

とはいえ、撮影された写真も、結局自分のバイアスで見てしまうわけで、そこでもバイアス以上のリアルさには出会えないことになる。

視覚のバイアスから逃れるには

このように、視覚はバイアスに囚われやすい。それもそのはずで、人は見ることにより、危険か否かを瞬時に察知できるように、整理分類する力が備わっているからだ。

だから、対象物を捉える際に、今まで蓄積された多くの画像と照らし合わせて、「こういうものだよ」という信号を出す。そのバイアスから逃れることは、本来危険を伴う作業だし、安全面から考えるととんでもないことのように思われる。

とはいえ、モノの見方を変えなければ、新しいものは生まれてこない。本来芸術の役割はそこにあったはずだ。そのためには、危険を冒してでも、バイアスを自由に変化させる必要があった。

芸術におけるリアルさの追求

名画と謳われる絵の数々は、誰が見てもあるリアルさがある。それは、そのとき画家が感じた心象風景の新鮮さ・それから生み出された感動が、画家の手によって忠実に再現されているからだと思う。

そこには、自らのバイアスに敢えて挑んできた画家の苦悩があり、バイアス断ち切ろうとするコシの強さがあり、新たな感覚を迎え入れようとするハラの太さがある。そして、画家の挑戦を、技の力が支え、ある高みまで持っていく。

名画を見て感動するのは、そのような画家の感覚の遍歴や、苦悩を超えて雲から頭を突き出すことのできた達成感、あるいは、いまだに苦悩の只中にいる暗中模索の全貌を、一瞬で感じとることができるからではないだろうか。





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