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未来は後ろに。見えない未来の気配を感じる。



自滅でない倒産はない?


ある事業再生のコンサルをされている方曰く、「実は、自滅ではない倒産って、ほぼないんです」と。

確かに、我が社、我が身を振り返ると、最悪の事態になる覚悟をしたことは数え切れないくらいあったのですが、なんだかんだ言って、どうにか切り抜けて来ています。

そう考えると、「あのとき、辞めると言ってたら、その時点で倒産だったんだな」というのも、心当たりがありました。それも1度や2度ではなく。

ただ、倒産という決断をする、会社を辞めるというのも、一つの勇気ある決断であることに違いないと思います。

倒産という苦渋の選択をするまでには、相当の葛藤があるはずで、葛藤の上での決断は、しっかり練られた覚悟だと思うのです。それが、次のステップへ背中を押してくれるということも、大いにあると思います。

いずれにせよ、やめようが続けようが、「前に進む」には違いないと思います。生きている限り、後ろに戻ることはできませんから。

未来は後ろ?

その「後ろに戻る」で思い出したのですが、実は、未来は後ろにある、と中世の人は考えていたようです。

春ごろ、『世界の辺境とハードボイルド室町時代』を読んでいて、そんなことが書かれていました。

戦国時代ぐらいまでの日本人にとっては、未来は「未だ来らず」ですから、見えないものだったんです。過去は過ぎ去った景色として、目の前に見えるんです。当然、「サキ=前」の過去は手に取って見ることができるけど、「アト=後ろ」の未来は予測できない。
つまり、中世までの人たちは、背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいくような感覚で生きていたんじゃないかと思います。勝俣鎮夫さん(日本中世史)の論文によると、過去が前にあって未来は後ろにあるという認識は、世界各地の多くの民族がかつて共通してもっていたみたいなんです。

ところが、

日本では16世紀になると、「サキ」という言葉に「未来」、「アト」という言葉に「過去」の意味が加わるそうです。それは、その時代に、人々が未来は制御可能なものだという自信を得て、「未来は目の前に広がっている」という、今の僕たちがもっているのと同じ認識をもつようになったからではないかと考えられるんです。
神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わったのかなと思います。

とのこと。

未来は制御可能、と感じたのが16世紀とは、随分早い時期だったんだなと個人的には思いましたが、ともかく、中世まで未来は後ろだったわけです。

未来は制御できない

コロナの収束が見えない昨今、未来は制御できないんじゃないかと、不安に駆られている人が増えていると思います。

私は、未来はもともと制御できるわけがないと思ってきました。「念ずれば叶う」といっても、実際には何らかの偶然が作用してないと無理だと。「もしかしたら、念ずれば、叶うかもね」というのが本来かと思います。

この際、中世の人たちのように、未来は後ろにあって見えないんだから、そういうものとして覚悟するというのもアリかと思います。だからこそ、自分の前にあってよく見えている過去をじっくり観察し、そこから来るべき未来を見通そうとする力が必要ではないかと思います。

ここで大切なのは、見通そうとするけれど、現実には見通せないことです。本来、未来は後ろにあって見えないのですから、すべて予定通りにいくとは誰も言えないわけです。

予定調和の世界から、未定調和の世界へ。

過去を十分に検証して、未来への見通しを立てた上で降した決断は、どのような形であれ前向きで、勇気ある決断だと思います。

見えていない、後ろにある未来でも、気配くらいは感じ取ることができるのではないでしょうか。

見えない未来を感じるために、目の前にある過去をじっくり観察し、検証する。そしてそれを拠り所として、未来の気配を感じ取っていく。そうすれば結果はどうであれ、手探りでも前に進めるのではないかと思います。

もうすぐ節入り。コロナに明け暮れた1年を思い返しながら、自分の後ろにある、新しい年への挨拶がわりに書いてみました。

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