肌で感じる「みんな違ってみんないい」
ウチは自分ちを事務所にしている会社なので、普通の家よりお客様が多い。しかも、多岐にわたる人たちが来てくださるので、子供達は自然、多種多様な人たちに出会うことになる。
数年間、ケニアでの緑化プロジェクトを手がけたことがあった。
その時の現地のパートナーNGO の代表の女性が、お子さんを連れてやって来た。ケニア人なので、当然だけど肌の色が黒い。
最初に彼らに会ったウチの子の反応は、号泣。わんわん泣きながらの第一声は「お母さん、どうしてあんなに黒いの?」
あまりに素直な反応なので拍子抜けして大笑いしてしまった。そりゃそうだよね。なんで?って思って当たり前だよね。
そこで、アフリカでは日本の数十倍の太陽を浴びて生きることになるから、それに耐えられるように、肌の色が黒くなって身体を守っているんだよ、というような説明をしたら、どうも納得したらしかった。
そのあとは言葉も通じないのに、子供同士すぐに打ち解けて、家中走り回って遊び始めた。
2、3時間後、そのケニア人の男の子が、私のことを「オカアサン」と呼んだ。「え?もう日本語覚えたの?」と思ってびっくりしていると、どうも私の名前が「オカアサン」だと思ったらしい(笑)。うちの子供たちが私のことを「おかあさん」と呼ぶのを聞いて覚えたようだった。
人種差別はいけません、と口で言っても分からないものだ。分からないままに「やってはいけないことなんだから、ダメなんだ」と頭で考えて行動しようとしても、無理がある。結局、腫れ物に触るような感じで、なんらコミュニケーションできず終わってしまうこともままある。
それって人種差別以前の問題だ。
相手に実際会ってみて素直に違いを認める。それについて素朴な疑問をぶつけてみる。そういうリアルなコミュニケーションを経て初めて、肌の色や文化の違いを受け入れようとする気持ちが芽生える。
実際には、お互い完全に理解し合うことはできない。でも、理解をしようとする”Try”が大切なんだろうし、そこが相手に伝わるから、関係性が出来ていくのだと思う。
そんな風に、ウチの子供たちには、実地でいきなり外国人とコミュニケーションする場に放り込むことになった。というより、それしか出来なかったので、必然的にそうなったのだけど。
いまだに彼らが、ケニア人の男の子のことや、中国のアーティストに遊んでもらったことを懐かしそうに話したり、長女が留学先のオーストラリアで、以前一緒に仕事していた友人のお世話になっていることなんかを考えると、今のところ、それはいい方向に作用しているような気がする。
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