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記憶の引き出しを開ける鍵

祖父は私が3歳の夏に亡くなった。なので祖父の記憶は殆どない。

保育園が嫌いだった私を、祖父は毎朝連れ出し、保育園まで送ってくれた。
帰ろうとする祖父の背中に泣きながら縋り、「すぐに迎えに来るから」と帰っていく様を恨めしい思いでずっと見ていたことは何となく覚えている。

ただ、これも親や姉に言われて空想したことなのか、もともと記憶があったのかどちらか分からなくなっている。

こちらは明らかに記憶にあるが、年長さんになって祖母に三つ編みを編んでもらうようになった頃には、少しは保育園に行くのが楽しくなっていた。

三つ編みを編む祖母の手の感触や、髪を引っ張らないようにそうっと触れてくれてると感じた時の、頭がジーンと温かくなるような感覚は、今でもリアルに覚えている。

3歳児の記憶



祖父は胃がんだった。

当時胃がんで亡くなる人は今よりはるかに少なかった。がんと言えば「不治の病」として恐れられていた頃だ。一家の大黒柱が不治の病にかかり亡くなったということは、親戚中に暗い影を落としたようだった。


お葬式は昔の田舎のことゆえ、家で営んだ。

3歳児にも「人が死ぬ」という感覚は何と無くわかるものだ。

息をしていない。
もう二度と起き上がることはない。
声も聴けない。

菊の花に埋もれていた祖父のことは、うっすら覚えている。鼻の穴に詰め物をされていたことが強烈だったのか、何故なのか母に聞いた覚えがある。

お葬式が進む中、どんなタイミングだったかで、親戚の大人同士で「智子にはまだじーちゃんが死んだこと分からんのやね。かわいそうに」と話しているのが聞こえた。

それを聞いて、「じいちゃんが死んだことがわからないフリをしなきゃ」と思った。

そして、後になって誰もいない廊下で、一人ひっそりと泣いていたのを覚えている。


人間には、どんなに幼くても、生き死には分かるものだ。
そして人間は、どんなに幼くても、よほど強い意志がない限り、自分の欲求より周りの期待に応えようとすることを優先する生き物だ。

大人になってもこれは絶対に忘れてはいけない。

その時そこまで思ったかどうかは分からないが、いつしか自分の中では、大人になっても携えるべき教訓として、定着していったようだ。

そして50歳を過ぎた今でも覚えている。多分、祖父が亡くなったことと同じくらい違和感があって、とても忘れ難い出来事だったのだろう。

深緑の鼻緒の下駄

新卒で就職した会社を辞め、程なく結婚することになった。
新居も決まり、慌ただしく荷物を整理していた頃、母から荷物がしょっちゅう届いた。

大体は学生時代に着ていた服や、アルバム、本やカセットテープといった類で、「正直要らんよな」というものが大半だった。

今思えば、子どもの匂いのするものを家から離して、どうにかして子離れしようとしていたんだと思う。

今、子どもが巣立っていく母親になってみて初めて、自分の母の気持ちが分かる。それも痛いほど。母自身、子離れしようと懸命だったに違いない。

そんな荷物の中に、下駄が何足か入っていた。
夫も私も着物を着る機会が比較的あったからで、それを察して入れてくれたようだった。

これはありがたかった。

祖父母や両親が数回履いただけのものが殆どで、中には鼻緒が古過ぎてすぐ切れそうなものもあったけれど、それでも古いものが好きな私たちにとっては嬉しかった。

その中に深緑の鼻緒の男性用の下駄があった。

なんの変哲もない、ごく一般的な下駄だったけれど、それを見た瞬間、記憶の糸がクルクルクルッとほぐれた。

じいちゃんの下駄だ!

3歳児の小さな背丈で、地面ばかり見ていたせいだろう、しゃがみ込んで下駄を見下ろした途端、思い出した。

緑の鼻緒は、記憶か、空想かといった曖昧さは一切なく、ごく鮮明に蘇った。下駄の音まで聞こえたような気がした。

記憶の引き出し


記憶は、忘れて消え去るのではなく、ちゃんと引き出しの中に仕舞われている。

しょっちゅう思い出すようでは前に進めないから、普段は隠されているのだろう。そして、何かの拍子にチラッと引き出しを開けて見せてくれる。

創造主がいるとすれば、なんと粋な計らいなんだろう。

今まで折に触れ、何か書いたり、描いてみたり、楽器を弾いたりしてきた。

それはつまり、思いがけず引き出しが開き、大切にとってあった宝物を見つけた時の感動を、何とか人に伝えたかったからなのかもしれない。

もしくは、引き出しが何かの拍子にうっかり開き、「え!こんなのあったっけ?」とか「あぁ!そういえばこれってあの時のあれだ!」といった掘り出し物を探し当てたかったからなのかもしれない。


人生にもたらす福音


いずれにせよ、いくつになってもこんな発見があるなんて、それだけで人生って手放しで素敵だと思う。

それに無意識のうちに、あの手この手で引き出しの鍵を開けようとしていることも、ある意味人生の醍醐味だろう。それによって色々な体験ができるし、その分人生も豊かになっていく。

これからどれくらい引き出しが開いていくのだろう。

引き出しがどんな形で開いても、それを誰かにちゃんと伝えられるように、日々感覚を磨いていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。



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