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箒の発明

歌舞伎の小道具を扱う老舗のご依頼で、時代考証の専門家の方からお話を伺う機会がありました。

その時は、烏帽子の話がメインだったのですが(その話も相当奥深くて凄まじかったのですが)、一番印象に残ったのは役柄の身分や性別によって動作の「型」が全て決まっていること。

例えばおばあちゃんと若い女性の杖のつき方は、その持つ位置や、指の置き方で区別されているし、戦う気のあるなしは、左手と右手の棒の握り方で区別している、など(順手か逆手か)。

動きとしてはかなり微細なことなのですが、その通りやれば誰が見ても「おばあちゃん」と「若い女性」の区別がつき、「戦意のあるなし」がわかるのです。

そんなことが連綿と江戸時代から受け継がれてきているなんて驚異。

しかし翻って考えれば、私たちみたいな普通の人間だって、
微細な動き一つとっても江戸時代どころか、遥か太古から受け継がれて来ているはずです。

本当は掃除用具を使うことだってそういう「型」があるわけで。

ただし、道具はどんどん進化している。箒から掃除機へ、洗濯板から洗濯機へ、鉛筆からパソコンへ...。
例えば、箒を扱う時と、掃除機を扱う時だと全然身体の動きが違う。洗濯板を使って洗濯物をもみ洗いするのも、洗濯機のボタン一つの動作に変わったし、鉛筆で字を書くのとパソコンでの入力だって全く別物です。

でも人間は、ホモ・サピエンスになってからは特段進化していないわけですから、なんなら道具から置いていかれている。

そうすると私たちの身体は、新しい道具に合わせて型を形成することができず、「型無し」になってしまいます。

そもそも私たちは、道具ありきではなく、まずは「感覚」ありきで道具を発明してきたはずです。なんかいい感じとか、しっくり来る、心地いいとか、そういうものを求めていくうちに道具に出会ったということかと。

例えばお掃除するなら、まず「清々しい感覚をどう発生させればいいか」があってこその箒の発明だった。利便性や効率はその後に来る話だったはずです。

電気のある近代的な生活は、便利な代わりに「型」をなくしてしまったとも言えます。しかし、一旦便利になったものは後戻りできない。

これから人間がもっと豊かに暮らそうとしたら、例えば「箒を使う時と同じ身体の使い方ができる掃除機」みたいな発想でなくてはいけないのかもしれない。馬を扱う時と同じような身体の使い方をしなくちゃ動かない自動車とか。

結果よりもプロセスに、効率よりも身体の充足感を中心に考えて、物事を発想していくーー。

そんなことが、今後人間がより豊かに進化していくためには必要なのかなと。


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