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今日の一言!「失うものがあれば、得るものも必ずある」


「物忘れがひどくなっている自分に、いちいちがっかりするわ〜」と話していたら、横から長男に

「おかあさん、失うものがあれば、得るものも必ずあるんだよ」

と言われた。

どうも昔、「目の見えない人はどうやってピアノを弾くんだろうね」という話になった時に、長女が言った「目の見えない人には、見える人が持っていない別の能力があるんだよ」というのを思い出したらしい。

なるほど。
私もその考えにはとても共感できる。知り合いに目の見えない台湾のピアニストがいて、鎌倉に来てもらったり、コンサートを主催したりしたことがある。その時に、何度も長女と同じことを感じた。

(そういえば、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を偶然本屋さんで見つけ、長女と感激しながら読んだこともあった。彼女はあまりに感激して、著者の伊藤亜紗さんにファンレターを書いたほどだった)

***

ところで実は、「失うものがあれば、得るものも必ずある」は、考えてみると自分たちも幾度となく経験している、馴染み深い感覚でもあった。

例えば、会社経営。

今までコンスタントに受注していたものが、ある日いきなり来なくなる。このままだと、まずい、どうしよう、と思って、溺れないようにバタバタ手足を動かすが、動かせば動かすほど、溺れていく。あれもこれもと方々に手を尽くして、終いにはもう打つ手がない...となる。

頭の中が空っぽになり、ふと空を見上げる。そんな時の空は、格別に美しく感じる...。

*昔見た映画『無能の人』のワンシーンで、竹中直人扮する石屋さんとその一家が、夜の河原で「この宇宙には、私たち家族三人しかいないみたい...」とつぶやいて空を見上げるシーンがあった。あぁいったシーンを想像していただけるとしっくりくると思います(笑)

なすすべもなく立ちすくんだり、目の前にやってくることをどうにかしたりしているうちに、全く予想もしないところから第3の手がやってきて助かる。どころか、その第3の手が次の事業の柱になって行ったりする。

このように、経験済みの感覚であれば、失う時に別の得るものがあることを知っている(知っててもいちいちへこんだり沈んだりするんですけどね)。

物事はそうやって移り変わっていくこと、浮き沈みがあることを身体でわかっているからだ。

移り変わるものごと

しかし、老いにより物忘れがひどくなっていくというのは経験がないし、すでにある「失うときに別の得るものがある」という感覚とつながらない。

そんな時に、子どもの一言で救われた。

そうか、物事ってそうやって移り変わっていくんだった。

だから、なくなる一方とか、増えていく一方っていうのはなくて、行きつ戻りつ、あっち行きこっち行きしながら、全体も何かしら変化していく。

そうやって生き物とか社会というのは、(動的平衡的に)恒常性があるように成り立っているし、微細に日々動きながら徐々に全体も変化していく。

それが、「無常というもの」として、古来日本で尊ばれてきたものだ。

無常感

ずいぶん前になるが、小林秀雄の『私の人生観』を読んだ際、小林の無常感についての考えが、これまでの「無常」のイメージを完全にぶち壊してくれたのを思い出した。

はっきり覚えていないが、大体こんなことが述べられていたように思う。(だいぶ脚色されているような気がしますが(汗)

「無常」とは、永遠にあるように見えていたものが失われることもある、と分かった時に浮かぶ感慨である。しかし、盛者必衰の理に見られるような、形ある者は全て失われるといったネガティブな貴族趣味的感傷というよりむしろ、失った後にまた新たなものが立ち上がってくるという、強烈な生命の輝きを表す言葉なのだ。

だからこそ同じ舞台に立つかりそめ同士、この世の一切の事物を慈しみ、大切にしようというアニミズム的思考にも繋がる。

何かが失われると、生きる根本の自分のいのちが有限であることを強烈に感じざるを得ない。そして一番堪えるのは、全ての関係もまた有限だと気がついてしまうことだ。

本来、無常とは生命の躍動そのものを表すのだから、失えば得るし、無くなればまた現れる。

そう考えれば、「物忘れ」によって何かを得ているはずなのもうなづける。
その「何か」がいまいちわからないのが、今の課題なのかもしれない。

これから先、何年生きながらえるかはわからないが、じっくりとその「何か」を探求してみたいと思う。分かってもわからなくても、探求自体に意味があるということにしておこう。













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