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王朝国家で「官名」と「役職」が一致しなくなった経緯

 時は江戸時代。江戸の町の行政・司法を担当していた役職が町奉行でした。
 では、その町奉行にはどういう人がなっていたのか。時代劇にも出てくるような著名人で言うと、大岡越前守遠山左衛門尉と言った人たちがいました。
 もっとも「越前守」や「左衛門尉」と言うのは官名であって実名(諱)ではありません。大岡越前守の実名は忠相と言い、「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉の実名は景元と言います。
 しかし、ここで問題になるのが官名です。官名とは本来「官職の名前」ですが、江戸時代には官名と役職がまったく一致していないからです。
 越前守は越前国の長官ですが、彼は越前に何の関係も無い、江戸の町奉行です。しかもその後大名に取り立てられた先は愛知の藩であって、生涯に渡り越前で仕事はしていません。
 また左衛門尉は天皇陛下をお守りする左衛門府のナンバー3ですが、遠山の金さんは別に天皇陛下を守る仕事などしていません。彼はあくまでも幕府の官僚です。
 「官職」と言う言葉もある通り、官名と役職とは本来一致しているはずです。それがそうならなくなった背景には、数百年にも及ぶ「官名」と「役職」とが分離してきた歴史があります。

形骸化していたのは「武家官位」だけではない!

 少し歴史に詳しい方ならば、大岡越前守や遠山左衛門尉の官名と役職が一致していないことについては「武家官位だから実態が無かったんじゃないの?」と言われるかもしれません。
 武家官位とは、簡単に言うと将軍の推薦によって朝廷から授けられる官位のことです。「推薦」とは言っても、『禁中並びに公家諸法度』等の規定により事実上天皇陛下に拒否権はありませんでした。
 朝廷から授けられる官位なので、当然朝廷における官職を示している訳ですが、現実には武士は大名や将軍に仕えていますから、名前だけの存在であることは言うまでもありません。
 例えば、忠臣蔵で有名な赤穂事件の当事者である浅野内匠頭と吉良上野介で言うと、浅野内匠頭の「内匠頭」は言うまでも大工さんのことを「たくみ」と言うことでも判るように朝廷の工房の長で、吉良上野介は上野国の次官です。
 とは言え、赤穂のお殿様である浅野内匠頭に「天皇陛下の為に大工さんを率いて何かせよ」と言うバカはいません。三河の領主であった吉良上野介に「今から上野国で政治をするように」と言うものもいません。二人とも自分の領地で仕事をしているか、そうでなければまさに赤穂事件の時みたいに幕府に任せられた仕事を江戸城かどこかでしています。
 このように大岡越前守や遠山左衛門尉だけではなく、江戸時代の武士の官位はすべて形骸化していました。
 が、それでは朝廷に仕える公家の官位には実態があったのか、と言うとそうでは無いのです。
 例えば幕末に三条実美が左近衛大将に任命されています。左近衛大将と言えば武官ですが、三条実美が自ら大将として軍隊を率いて戊辰戦争を戦った訳ではありません。彼はあくまでも公家です。
 これは幕末だけのことではなく、江戸時代初頭に伏見宮貞清親王が兵部卿(今の防衛大臣)となっていますが、皇族が将軍をさておいて軍事を担当するはずもなく、また江戸時代中期に治部卿(今の外務大臣)になった土御門泰邦は外交とは無縁の陰陽師です。
 陰陽師が所属する陰陽寮は中務省の管轄であって、治部省とは全く関係ありません。このように江戸時代においては武家だけでなく公家の官位も形骸化していたのです。
 どうしてそのようなことになったのか。歴史は平安時代までさかのぼります。

「関白」と言う官職は存在しない!

 大岡越前守や遠山左衛門尉は「越前守」や「左衛門尉」という官職(官名)でありながら実際の役職は「町奉行」でした。このように官名とは別の役職が与えられることは、実は江戸時代特有の現象ではありません。
 皆様が学校の授業で一度は聞いたことがあるであろう「摂政」や「関白」も実は官名では無いのです。
 話は平安時代初頭に遡ります。太政大臣である藤原基経は宇多天皇に対して圧力をかけて強引に「関白」となりました。このことの経緯は私のnoteに以前書きました。

  さて、私も高校時代まで誤解していたのですが、実は藤原基経は太政大臣を止めて関白になったのではなく、太政大臣のまま関白になったのです。
 例えば「大納言から大臣になる」のであれば「大納言だった人が大納言ではなく、大臣になる」ということになりますが、それとは意味が違うのです。
 どういうことか。一言で言うと関白と言う官職は存在しないのです。
 摂政や関白は大臣の中から適任のものが天皇陛下の代理人と言う役職を与えられたものですが、これはあくまでも「役職」であって「官職」では無かったのです。
 官職はあくまでも「太政大臣」や「左大臣」「右大臣」なので、関白を官名で呼ぶときは「○○大臣」と呼びます。
 但し、流石に天皇陛下の代理人を他の大臣と一緒にするのは失礼と言うことで「関白太政大臣」のように呼ぶこともあります。『小倉百人一首』の「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠道)もその例です。あくまでも官名は太政大臣なので関白就任後も「大臣」と呼ばれ続けることに代わりません。

官名には「官位相当制」による制限がある

 大臣は「太政官(政府)のトップ」であるのに対して、関白は「天皇陛下の代理人」です。この両者は仕事の内容が異なります。
 それでは関白に就任した大臣は「関白としての仕事」と「大臣としての仕事」のどちらを優先したのか、と言うと、それは「関白としての仕事」でした。
 藤原摂関家の大臣は関白に就任すると太政官(政府)の会議には出席しなくなり、官職は大臣でありながら大臣としての仕事はせず関白としての仕事のみをすることとなります。
 つまり実態のある役職は「関白」の方であって、本来の官職である「大臣」は名前だけであったのです。大岡越前守や遠山左衛門尉の実態のある役職が「町奉行」であって「越前守」や「左衛門尉」が名前だけなのと一緒です。
 しかし、どうせ大臣としての仕事をしないのであれば、どうして実体のない大臣の官名を名乗るのでしょうか?大臣の上の役職を作ってもよさそうなものです。
 それを困難にしたのが律令国家の基礎をなす官位相当制と言う制度です。
 「官位」とは「官職と位階」のことです。「官職と位階が相当(対応)する制度」なので「官位相当制」と言います。
 位階とは「正一位」から「少初位下」まで30ランクある序列です。
 まず「一位」から「八位」までのランクとその下の「初位」と言うランクがあり、さらに「一位」から「八位」までは「正一位」と「従一位」と言う風に「正」と「従」に分けられ、「初位」も「大初位」と「少初位」とに分けられます。さらに「正四位」から「小初位」まではそれぞれ「正四位上」と「正四位下」のように「上」と「下」に分けられ、合計30ランクになるのです。
 これはかなりわかりやすい制度です。「一位」の人と「六位」の人と聞けば「一位」の方が偉いことは明白です。さらに同じ「六位」でも「正六位上」と「従六位下」であれば、誰がどう見ても「正六位上」の方が偉いと思うでしょう。
 そして律令国家では様々な官職にこの位階を対応させて、官職同士の序列をわかりやくしました。
 例えば「中判事と少納言、どっちが偉いの?」と聞かれても咄嗟に答えることは難しいですが「中判事は正六位下、少納言は従五位下」であると知ると「そりゃ、五位の少納言の方が六位の中判事よりも偉いでしょ」となります。人間は数字で表すとよく覚える生き物なのです。
 さて、太政大臣の位階は従一位で、左大臣と右大臣の位階は従二位でした。
 従一位の上には正一位がありますが、伏見稲荷大社の神様が正一位であることでもわかるように、正一位は神様の中でも最高レベルのランクですので生きている人間にはあまり縁がありません。
 生きている人間で正一位になったのは6人だけですが、その内一人(藤原仲麻呂)は位階を剥奪され、もう一人(三条実美)は亡くなる前日の叙位です。つまり実質は4人だけですが、その内一人は天皇陛下の母親(藤原宮子)でまた一人は天皇陛下の祖母(源方子)であり、政治家で生きている間に正一位になったのは橘諸兄と藤原永手の2人だけです。
 ちなみに橘諸兄も伊萬里神社の祭神になっていますし、やはり正一位となると神様レベルの扱いとなります。なので生きている人間が正一位になるのは例外中の例外と言ってもいいです。
 と言うことは、事実上の最高の位階が太政大臣です。となると太政大臣よりも上の官職を作ることは不可能な訳ですね。
 さらに左大臣や右大臣、つまり位階が二位でも関白になる例が出てくると、余計に関白を特定の位階に対応させることは出来なくなります。
 まさか関白の役職を正一位に対応する官職としたところで、昨日まで右大臣(従二位)だった人が伏見稲荷大社の神様と同格と言っても誰も相手にしないことは明白です。
 官位相当制は官職の序列を位階で判りやすくする効果はありますが、ある意味わかりやす過ぎた面があります。どんな官職も数字でランクがついている以上、新しい官職を作ることが困難となり、官職とは無関係の役職が作られるようになったのです。

征夷大将軍も「官名」では無い

 さて「官位と無関係な役職」は関白から始まった訳では、ありません。
 奈良時代、日本は主に蝦夷としばしば戦争になりました。この蝦夷について今では「アイヌ民族とは無関係」とする説が有力ですが、どうも今のアイヌ民族は縄文人の末裔(日本民族と同じ系統)とオホーツク人(ニヴフ民族の祖先)の混血らしく、オホーツク人は粛慎のことと思われるので、粛慎と蝦夷の混血が今のアイヌ民族であると思われます。
 「蝦夷」と言う文字には東方の住民への蔑称以外の意味は無いのですが、粛慎と区別されていることからオホーツク人とは別民族のはずです。彼らは血統的には日本民族と大きな違いは無かったと思われます。
 よく縄文人と弥生人と言う二つの血統があったと言う理解をされる方もいますが、私個人の見解としては縄文人自体が様々なグループの混血であったと考えられます。中国の土器と日本の土器が類似しているという話もありますし、縄文時代から日本列島には大陸からの移民が来ていたはずです。また黒潮に乗って東南アジアからも移民は来ていたでしょう。
 なので弥生人と言っても混血であるという点では縄文人と大きな違いは無いと思われるのです。古墳時代以降にも様々な帰化人が来ますが、このような現象は縄文時代から繰り返されてきたことでしょう。
 蝦夷についても狩猟民族のイメージがありますが、実際には農耕も行っており、さらには南方とも交易をおこなっていたようですから、当然他地域の方も受け入れていたはずです。従って縄文人の末裔と言うと縄文時代そのままのようなイメージもありますが、実際には混血も進み文化も進歩していたと思われます。
 大和朝廷は蝦夷の討伐に苦心しましたが、それは蝦夷が「強かった」からでしょう。「蝦夷は文明を知らなかった」みたいな史観では大和朝廷の苦心が理解できなくなります。
 さて朝廷は蝦夷討伐の際に従来の武官をそのまま派遣させることはしませんでした。
 「武官」と言うと軍事のプロではありますが、一方で「官僚」です。役職は「官位相当制」によって決められます。どんなに実力があっても位階が低ければ上の官職は与えられません。しかも貴族は蔭位の制と言って実力が無くても上の位階が与えられますから、官位相当制の枠内で武官を蝦夷討伐に派遣すると「実力の無い貴族のバカ息子が軍隊を率いる」みたいな話になりかねません。これだと強い蝦夷に勝てません。
 そこで朝廷は位階に関係ない役職である「鎮東将軍」や「征東将軍」等を任命して蝦夷と戦わせることにしました。
 これらは最初は「臨時ポスト」でしたが、こうした臨時ポストの中から「征夷大将軍」と言う役職が生まれます。
 第二代目の征夷大将軍である坂上田村麻呂は漢の皇帝の子孫と伝えられています。アニメ「おじゃる丸」の主人公である坂上おじゃる丸も中国の皇帝の血が入っていることとなります。
 その坂上田村麻呂が蝦夷の将軍である大墓公阿弖流為と講和をしました。
 阿弖流為は「大墓公」と言う称号を持っていることでも判るように、少なくとも漢字を使える程度の教養があったことは確実です。朝廷側に敵の阿弖流為に「○○公」と言う称号を与える義理はありませんから、これは蝦夷側による称号です(或いは、以前に朝廷から称号を授かった蝦夷の子孫かも知れませんが、いずれにせよ蝦夷が漢字文化圏であったことに違いはありません)。
 坂上田村麻呂はその阿弖流為に勝利して彼を朝廷に連れてきますが、一方で彼の助命を訴えます。しかし朝廷は阿弖流為らが「野生獣心」であるという差別心に満ちた言葉で彼らの処刑を決定します。本当にそのような野蛮人であれば「大墓公」みたいな大層な名前を名乗るはずが無いので、蝦夷が野蛮だというのは朝廷側によって作られたイメージです。
 このことを朝廷は征夷大将軍が蝦夷に大勝利した先例(吉例)としてきました。
 そして源平合戦の時に源義仲(木曾義仲)を征大将軍に任命しましたが彼は京都で暴れまくった挙句、皇位継承問題にも口を出すという不敬な行動に及んだためこれは「悪例」と言うことになり、次の源頼朝に対しては「吉例」である征夷大将軍に任命、これが鎌倉幕府から室町幕府、そして江戸幕府に至る武士の頂点としての「征夷大将軍」の始まりとなります。

形骸化しても「官名」は残った

 さて、この歴史の重要なところは、王朝国家(平安時代中期)以降江戸時代に至るまで、完全に「形骸化」しながらも「官名」は残った、ということです。
 藤原摂関家が権力を握るようになると、政治的に意味があるのは「大臣」ではなく「関白」の方です。しかし「大臣」が無くなった訳ではなく、関白も多くの場合は大臣を兼任しましたし、摂関家以外の大臣が就任することも当然ありました。
 形骸化しても名前だけを残す、これは君主国ではしばしばみられる現象です。
 例えばイギリスでは第一大蔵卿と言う役職があります。これを見ると財務大臣のことかと勘違いしてしまいそうになりますが、実際には内閣総理大臣が兼務している称号です。無論、今では第一大蔵卿の仕事などないに等しく、内閣総理大臣が主な役割です。
 平安時代の日本でも関白以外にもこうした「兼任」は登場しました。
 例えば知行国主と言うものがあります。
 律令国家では地方行政を担うのは国司であり、国司のトップが国守です。しかし、国司は官位相当制では貴族の官職ではなく(貴族は従三位以上の公卿を指し、広義の貴族も従五位下以上の位階です)、唯一「大国」「上国」とされた地域の長官(国守)は従五位でしたが、これは広義の貴族の中でも最下位のランクです。
 ところが、貴族の中にも地方の実権を握りたいものが出てきます。彼らは知行国主という役職を与えられ、その地域の国司の人事権を含む支配権を与えられました。
 例えば藤原家成は官職が右衛門督であった頃に越後国の知行国主となり、当時7歳の息子である藤原成親を国守に任命しています。無論7歳児に越後の行政が出来るとは誰も思っていない訳で、実際に越後国の支配権を握っているのは「越後守」の成親ではなく「右衛門督」の家成です。
 なお右衛門督は武官ですが、実際には家成が軍隊を率いて戦ったりしてはおらず、これは父親の官職である「右衛門督」も息子の官職である「越後守」もどちらも形骸化している例です。
 こうした平安時代に始まった「官職の形骸化」は鎌倉時代になるとさらに進み、征夷大将軍源実朝が「右大臣」になるという事態にまで発展します。源実朝は鎌倉にいますから、京都で右大臣としての仕事などできるはずがありません。
 それではどうして「全く実体のない」右大臣のポストを実朝が求めたのか、と言うとそれは簡単で「偉いポストだから」です。
 「征夷大将軍」だと「武士の棟梁」と言うことは判りますが、官位相当制の枠外なので「どれぐらい偉いか」までは判りません。それが「右大臣」だと位階は二位で過去の例でいえば菅原道真と同格ということがすぐわかる訳です。
 これはとても便利です。特に「エライ感」を出したい人間にとってはどんな実体のある役職よりも実体のない官職の方が有用です。
 これが何百年も続いた結果、官職が完全に形骸化した極地が江戸時代なのです。
 例えば徳川家康は征夷大将軍に就任する際、同時に右大臣にも任命されています。この時豊臣秀頼は内大臣でしたが、家康も秀頼も大臣の仕事などしていません。ただ、大臣としては内大臣よりも右大臣の方が格上なので官職を見ると徳川家康が豊臣秀頼よりもエライことが一目瞭然なのです。
 念の為に言うと「征夷大将軍」と言うだけでは徳川家康が豊臣秀頼よりも偉いかどうかは判りません。現に秀頼の父親である豊臣秀吉は征夷大将軍には一度もなってはいませんが天下人になりました。徳川家康がエライことを見せるためには右大臣の官職が必要だったのです。
 ただ、ここまで見てきたようにこの種の形骸化は武士の時代に始まったことではなく、既に平安時代から行われてきたことなのです。
 形骸化してでも利用価値があるぐらい律令国家の官位相当制は優れていた、と言う事でしょう。明治維新後官位相当制は廃止されましたが、それでも位階令は今でも(『日本国憲法』下では法的根拠が無いのに)有効法令として扱われています。

※現在の「位階令」の法的根拠

 我が国では大宝元年(西暦701年、皇暦1361年)制定の「官位令」が養老2年(西暦718年、皇暦1378年)に改正されつつ使用されており「官位相当制」の根拠となっていた。明治2年(西暦1869年、皇暦2529年)には「官位令」は「職員令」と統合の上、上下の別が無くなるなど全面的に改正されたが「官位相当制」は維持されていた。
 明治4年(西暦1871年、皇暦2531年)に「官制等級改定令」が布告され「従前ノ官位相当ヲ廃シ更ニ官等十五ヲ立ツ」ことが決定された。これにより千年以上の歴史のあった官位相当制は廃止されたが、ここで廃止されたのは官職と位階の「相当」であって、位階そのものは廃止されなかった。
 明治20年(西暦1887年、皇暦2547年)に「叙位条例」が制定、さらに大正15年(西暦1926年、皇暦2586年)には「位階令」が制定されるなど位階制度は変遷していくが、廃止はされないまま続く。昭和21年(西暦1946年、皇暦2601年)に位階の叙位は「一時停止」されるが廃止はされず、故人への叙位は続けられた。
 しかし昭和22年(西暦1947年、皇暦2603年)に施行された『日本国憲法』下では天皇による栄典の授与は内閣の助言の承認による国事行為とされ(第7条)、その内閣の政令はあくまでも「この憲法及び法律の規定を実施するため」に制定されるものである(第73条第6号)。「位階令」についてはこれを規定する法律が無い以上、そのまま叙位を行うのは違法状態となる。
 これについて政府見解では『日本国憲法』第7条の「栄典を授与すること」という「憲法の規定」を実施するための政令であるから問題ない、と言うことになっている。だが第7条の規定は多岐に渡り、この解釈だと内閣は事実上無制限に政令を制定できることになってしまう。

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