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藤原氏が公然と天皇陛下を無視!日本史のターニングポイント「阿衡の紛議」【律令国家の崩壊(6)】

 前回まで、藤原氏が荘園の独占によって国家を私物化してきた過程と、彼らが法律を無視して権力を握ってきたことに触れました。
 そして、前回紹介した藤原良房の次の世代になり、遂に彼らは「一線を超える」ことを行います。これにより日本の歴史は千年以上も(現代に至るまで)道を間違えた、と言っても過言ではありません。
 今回はそのことについて、初心者でも判るように説明します。

藤原氏独裁を防ぐ最後の砦・天皇陛下

 そもそも律令国家とは何か。
 天皇陛下の名の下に各地の豪族の私有地を没収し、全ての国民に平等に農地を与え、貧困に喘ぐ国民が出ないようにしよう、というのがそもそもの出発点でした。そして、それが結果的に国家を強くすることにも繋がると考えられたのです。
 ところが。奈良時代後期に藤原仲麻呂が権力を握って以降、律令国家の理念に反する政策が次々に制定されます。
 第一回目で述べたように、『墾田永年私財法』で貴族が広大な土地を独占するようになり、公廨稲制で百姓たちは借金地獄に苦しむようになりました。貴族の中でも藤原氏が事実上富を独占しました。
 しかし、それでもまだ希望はありました。それが、天皇陛下です。
 日本の律令では天皇陛下が直接政治に関与する場面は限られます。これが同時代の中国の皇帝と日本の天皇との大きな違いです。
 とは言え、直接政治に関与しないからこそ、天皇は藤原氏に対して中立である、とも言えました。
 称徳天皇(孝謙天皇)も藤原氏の血を引いておきながらも、『墾田永年私財法』の効力を停止するなどの改革を断行できました。実際にそれを推進したのは道鏡や吉備真備ですが、彼らを登用したのは称徳天皇です。
 桓武天皇も律令国家の立て直しに努力しました。天皇陛下の権威が律令国家を守る最後の砦であったのです。
 が、藤原氏はそんな建前すらも破ろうとしていました。

藤原基経が「関白」への任命を要求するも天皇陛下がやんわり拒否

 事の発端は宇多天皇の即位です。宇多天皇は母親が藤原氏ではなく、これまでの天皇とは違い藤原氏とは距離を置く可能性が指摘されていました。
 当時の藤原氏の頂点に立つ男が、前回紹介した藤原良房の養子である藤原基経です。
 宇多天皇は12歳の頃から藤原基経の異母妹である藤原淑子に育てられていたこともあり、藤原基経は特に彼の即位には反対しませんでしたが、一つ宇多天皇を試してみようと考えます。
「陛下、私を関白と言うものに任命してほしいのですが。」
「関白?聞いたことがない役職だな。」
「はい。これまでの日本にはない役職ではありますが、中国には先例がございます。どうかよろしくお願いします。」
「判った。後日改めて連絡する。」
 そして宇多天皇は義理の父親である橘広相に相談しました。橘氏は藤原氏に並ぶ名門ですが、橘広相は藤原淑子とも親しかったため宇多天皇とは良好な関係を保っていました。
「広相殿、関白と言うものにしてほしいと基経が言っておるのだが。中国の歴史に例があるというのだが、知っているか?」
「・・・陛下、知っておりますとも。それは、非常に危険であります。」
「どういうことだ?」
「中国の歴史において関白と呼ばれた男には、霍光という人がいます。彼は皇帝をしのぐ権力を持っていました。彼の意向で廃位になった皇帝もいるほどです。藤原氏を関白にすると日本は陛下の国では無く、藤原氏の国になってしまいます!」
「それは大変だ。何か方法は無いのかね?」
「関白に似た役職として、古代中国では阿衡というものがありました。これは遥か昔、殷の時代の役職でありまして、記録が殆ど残っていないこともあり曖昧な役職です。とりあえずは阿衡というものに任命してはいかがでしょうか?」
「おお、流石は広相殿!それは名案だ!」
 こうして宇多天皇は藤原基経を阿衡に任命することとします。
「藤原基経殿、汝を阿衡に任命する。」
「陛下!それは話が違います!私がなりたいのは関白であって、阿衡ではありません!」
「既に決まったことだ。是非とも阿衡として朝廷の政治に協力してほしい。」
「陛下、藤原氏を舐めないでいただきたい!私を関白に任命してくださるまで、私は一切の仕事を放棄します!」
 こうして藤原氏の頂点に立つ藤原基経が政務を放棄してしまいました。しかし、朝廷の役職の殆どは藤原氏の人間がついています。藤原基経が仕事をしてくれないと国政を纏めることのできる人間はいません。

天皇陛下に「謝罪」をさせて独裁的な権力を見せつける

 半年間も藤原基経がストライキをしてしまったため、宇多天皇は折れます。
「判った、藤原基経殿、汝を関白にする。それでよいか?」
 天皇陛下が自らの命令を撤回するなど、前代未聞です。しかし、それでも藤原基経はおれません。
「陛下、この私に恥をかかせてくれましたな!まずは、橘広相を処罰してください!話はそれからです。」
 騒ぎを聞いたのが、当時讃岐守(今でいう香川県知事)だった菅原道真。彼は讃岐から京都に出向いて基経を諌めます。
「基経さん、これ以上騒いでいると藤原氏の名誉に傷がつきますよ?天皇陛下も関白にすると言っているのだからそれでいいではありませんか!」
 結局、藤原基経も「妥協」して橘広相を罷免し、宇多天皇が藤原基経に「謝罪」をすることでこの問題は解決しました。
 ですが、天皇陛下でも藤原氏に逆らうと謝罪させられる羽目になる、という先例を作ってしまったことで、もはや誰も藤原氏の暴走を止められなくなります。
 陛下にすら公然と反逆する権力者・・・これにより、藤原氏に公然と逆らえる人間は誰一人いなくなりました。

「源平藤橘」の「橘」が消えてしまった

 また、奈良時代から平安時代まで様々な氏族が権力を握ってきましたが、その多くは藤原氏によって潰されており、この時点で残っている有力な氏族は「源平藤橘」(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の4つだけになってしまっていました。
 このうち「源平」つまり源氏と平氏は臣籍降下した(=皇族であることをやめた)元皇族たちとその子孫です。皇族の血を引くだけ会って彼らを完全に潰すことはさすがの藤原氏も出来ませんでした。(それでも影響力は藤原氏にどんどん奪われていきましたが。)
 なので源平を別格とすると、藤原氏に並んでいる有力氏族は橘氏だけでした。橘氏も奈良時代以前に遡ると皇族の血を引くのですが、平安時代の皇室とは疎遠です。それに橘奈良麻呂の乱以降、権力を失ってはいました。
 そして、今回の事件。藤原氏はそれでもしぶとく生き残っていた橘氏から完全に権力を剥奪したのです。
 こうして藤原氏に対抗できる有力氏族は事実上、消滅しました。

古代日本最期の忠臣・菅原道真

 阿衡の紛議以降、律令国家は急速に崩壊へと向かいます。
 藤原基経の没後、もはや藤原氏に対抗するだけの有力氏族は残っていませんでした。しかし、宇多天皇は諦めません。「最後の抵抗」を行います。
 そして、それが本当に「最後」になってしまいました。そう、律令国家崩壊を止める最後の試みになってしまったのです。
 それが、菅原道真の登用です。
 阿衡の紛議で橘広相への処罰に反対していた菅原道真に宇多天皇は注目しました。藤原基経の没後、宇多天皇は彼を重宝します。
 菅原道真は渤海(満洲)との外交で実績があり、外交政策では手腕を振るいました。その最大のものが、遣唐使の廃止でしょう。
「今の中国は国が乱れています。日本はもう中国から学ぶことはありません!」
 この菅原道真の主張により、中国の模倣ではない日本独自の国風文化が発展します。そして、中国の唐は菅原道真の予想通り亡びます。
 とは言え、これは「最後の花」でした。宇多天皇は菅原道真を右大臣に任命しますが、藤原氏だらけの朝廷において彼は殆ど何も出来ませんでした。
 やがて宇多天皇は醍醐天皇に譲位します。醍醐天皇は母親が藤原氏であり、親藤原氏の態度が鮮明でした。
 昌泰4年(西暦901年)、醍醐天皇は菅原道真を突如大宰府(九州)に左遷しました。しかも、「左遷」と言いながら九州で政務をしてはいけない、という事実上の流罪です。とは言え、あくまで「刑罰」ではなく「左遷」という建前でした。これが「昌泰の変」です。
 そのまま菅原道真は失意のまま九州で亡くなります。そして菅原道真の死後、御所(皇居)に落雷が起きます。人々は
「菅原道真は死んで神様になり、怒っているのだ」
と噂しました。こうして菅原道真が天神様として祭られるようになります。
 菅原道真左遷後、醍醐天皇は年号を昌泰から延喜へと改元しました。そして、菅原道真失脚の翌年である延喜2年(西暦902年)が、いよいよ律令国家最後の年となります。(続く)

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