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21世紀の運動会。

運動会はみるたびにいつも発見がある。

運動会というフォーマットは全国津々浦々どこも似通ったようなものだ。そして、時代が変わってもこれほど不変な催しもない。内容そのものは大して変わっていない授業でさえ、参観するとタブレットを使っていたり、モニターが進化していたり、授業の進め方が昔とは違っていたりと、なんらかの変化があるものだ。

それにひきかえ、運動会の変わらなさは半端ない。タイムカプセルのような存在が運動会だ。過去にタイムスリップしたければ、時の止まっている博物館や昔ながらの商店街、歴史ある遺跡を見に行くより、運動会に行くべきというのが持論だ。そこには今も生きた時間が流れていて、本物の郷愁が味わえる。

その証拠に、ビデオで撮った運動会を見返してみてもどこか臨場感に欠けている。画像が粗いせいだと思っていたが、画質が格段に上がった今でさえ、それは変わらない。秋晴れの空にひんやりとした空気、独特の緊張感といった雰囲気は全く記録されないからだ。

コロナも収まり、運動会もようやく元に戻ったかと思いきや、競技の数はまだ戻っていない。今や男女の区別さえつけず、誰が誰だかもよくわからない。相変わらず順位もつけず、競争もないので、とくに盛り上がりもない。明らかに退化のはずだが、一周まわってだんだんこれでも良いと思えるようになってきた。

こうしてオリンピック的要素を一切取り去った運動会は、もはやアートのような粋がある。運動に芸術性を加えるフィギュアスケートのようなものだ。子どもたちが日々練習を重ねた集団芸術は今年も見事だった。表情もいきいきと輝いている。ひとりひとりはなんてこともない、見知った子たちのはずである。お調子者もいれば、やや問題行動を起こす子もいる。それが渾然一体となって織りなす、鮮やかなダンスや舞の美しさ。

たった1ヶ月程度で、モチベーションも能力もバラバラな集団をここまでまとめ上げる先生方の手腕にはいつもながら驚かされるが、そこが昔から言われる日本人の優れた特質なのかもしれない。

以前は当たり前すぎて気に留めなかったことにも、人間と機械の距離が肉薄している今こそ気づく。ペラペラ喋れるようになったとはいえ、機械にはこのような訓練がいかに難しいことか。ひとつひとつのスピーディーで複雑な手足の動き、しなやかな一挙手一投足、これを教えられる日は来るのだろうか?

いつかその日が来たとしても、その感情豊かで愛らしい仕草には到達しえないだろう。計算力はおろか、描画能力、言葉やコミュニケーションの防壁も食い破られ始めている今、運動会は守られた小さな砦なのだ。

#子育て #育児 #運動会 #教育


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