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「ひきこもり」や「不登校」の方達への想い


今日もニュースを見ていて、ふと思いました。

 社会

 学校

 会社

いずれも一見 なんともない熟語ですが
このたった2文字が与えるプレッシャーたるや
自分を含め、この言葉に苦しめられている人、苦しめられてきた人がどれほどいることか。

どうして、これらのいずれかに属していなければならないという風潮があるのでしょうか。
属していない人は、はみ出し者なのでしょうか。

僕自身

学生時代にはいじめや体罰、教師からの嫌がらせなどを経験し、親との不和、家出、成績不良などを繰り返し

社会人になってからは上司からのパワハラや無視、それによる適応障害 

などなど、それなりに辛いことを色々 経験してきました。
特に中学時代は、顧問からの激しい体罰によって、持病を患うほど。
学校に行けなくなりかけたことが多々ありました。

まあ僕の話はさておき、笑

「ひきこもり」や「不登校」と言われてる方々が抱えている思い、そして僕の見解を
この場を借りて述べたいと思います。

大前提として

彼ら彼女らがそうなってしまった原因は

「社会や学校、会社に適応できなかったから」

だというのは、ちゃんちゃらおかしい話だと
僕は思います。

適応ではなく、受容が難しかっただけです。

それは人であったり、環境であったり、
出来事であったり、人それぞれ違いはあれど
受容しきれないほど、キャパシティを超える力を加えられ、反発力を失ってしまうのです。


パズルのピースのように、
その人の個性や特性ははめる前から決まっています。
もし、それを無理に適応させようと捻じ曲げようものなら
ポキッと折れちゃいますよね。

適応を求めるということは、そういうことです。変幻自在に形を合わせろとパズルのピースに向かって言うくらいアホな考えです。

「心を鍛える」なんていう
訳のわからない精神論を仰る人には
この"折れる"という感覚はわからないと思います。

ですが
恐らく彼ら彼女らのうち殆どの方は
ある日を境に、もしくはある出来事をきっかけにポキッと心が折れてしまい、
家から出られなくなったり、元いた生活に戻れなくなるのだと思います。

そうやって折れてしまうまでに
その人の心に対して、どれだけ
目に見えない負荷がかかっていたか。

周りの人は、
想像することしかできません。

だからといって個人の事情に対して、想像を働かせることをせず一概に「引きこもり」としてしまうのはなんか違いませんか。

僕は、彼ら彼女らが共通して持っている、人にはない武器がが少なくとも1つあると思います。

それは、真摯な人柄をもっていることです。

※「真面目」や「責任感」という言葉は、
人によって嫌だと感じる方もいると思うのであえて「真摯」という言葉を選びました。

もっと噛み砕いた言い方をするならば、
人の心と まっすぐに向き合える性格とも
言えます。

こんな腐った社会、大人達の中で毒されることなく、自我を保つことがどれほど難しいことか。
むしろ、そういった真摯な人柄を持つ彼ら彼女らこそ、あるべき姿ではないでしょうか。

にも関わらず、
人の機微がわからない大人達が腫れ物扱いをするせいで
余計に心を傷め、自責の念に負われるのです。

「ひきこもり」はもちろん
「HSP」やら「適当障害」やら
何かと名前をつけて分類せずとも、
本人達は自分が人一倍 敏感なセンサーをもっていると自分でよくよくわかっています。

アドラー心理学の"勇気づけ"
でも説かれていましたが

「あなたは社会に適応できていない」
と指摘してみたところで、一体それが何の解決になるでしょう。

とはいえ、いきなり
「あなたってとても魅力的!サイコーだよ!」
などの、とってつけたような言葉を言われても聞き手はいまいち納得できません。

もっと、純粋な言葉

「ありがとう」
「助かったよ」
「あなたがいてくれて嬉しい」

というような自然に湧く気持ちを共有する。
その一言は、彼ら彼女らにとって絶大な効果をもたらすと僕は思います。

取り留めのない話をしてしまいましたが
つまり何が言いたいかと言いますと、、

彼ら彼女らは
「ひきこもり」や「不登校」というように否定系のような形で、できないことばかり
指摘されていますが、

人の心が通い合える環境さえあれば
むしろ どんなことでもできる可能性
を秘めているのではないか、ということです。

そんな独り言でした。

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