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勝たなくていい。負けてもいい。ほどほどでいたい。


僕は、何事においても
「勝ちたい!」とか「1番になりたい!」
と思ったことが殆どありません。

なぜか。
多分、僕がずっと負け続けてきたからです。

負け惜しみ
と言われればそうなのかもしれません。


例えば、

僕は小学2年生から10年近く柔道を続けていましたが、小学校の頃に出た大会では2回戦に進んだことが殆どなかったです。

背の順では常に前。
物覚えも悪く、塾のクラスはいつも一番下。
泳げないし、走りも遅い。
おまけに扁平足で体力もない。

そんな子でした。

そんな僕でも、1番をとったことがあります。

中1の時に出た小さな柔道大会で、初めて優勝をしました。
決勝戦で勝った瞬間はとても嬉しかったのを覚えています。
ただ、馴染みのない「1番」という順位に胸がザワザワして、でもどこか虚しい感覚でした。

僕は、表彰をされている時
1番になった達成感よりも、2位3位、それ以降の順位の人たちに対する申し訳なさを自分が感じていることに気がつきました。


厳しい勝負の世界で生きてきた人は、
こんな僕の考えに対して
「考えが甘い!負けた相手への侮辱だ!」
と思うかもしれません。

でも、勝ったから何なんでしょう。

僕は小学生の柔道大会で
負けた子どもたちが思いっきり先生に頭を引っ叩かれて、ボロボロの顔で正座をさせられている光景を幾度となく見てきました。

僕の通っていた道場はそんな怖いところではなかったですが、僕は子どもながらに
「負けることは、暴力を受けなきゃいけないほど悪いことなのかな。負けた時点で、十分あの子は傷ついているだろうに。」
と思って見ていました。

どうせ勝っても貰えるのは

"賞状"という少し材質の良さそうな紙と

いかにも安い合金で、使い道のなさそうな
"トロフィー"だけ。

もちろん、思い出としての価値はありますが
お菓子の詰め合わせの方がよっぽど貰って嬉しいです。

そんなものを奪い合うためだけに、負けたら殴られたり罵倒されるような競争に出向かなきゃいけないなんてアホらしすぎます。


だから僕は ほどほど がいいんです。
勝っても負けても、どっちでもいいんです。

古くから 儒教には
『中庸』(偏りのない状態のこと)
という言葉もありますが、
これは僕が最も好きな言葉です。

この言葉もそうです。

『過ぎたるは猶、及ばざるが如し』
…度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くない


1番になろうとしたり
誰かに勝とうとすること
それ自体は一概に悪いことだとは思いません。
なぜなら、そこに向かって自分を磨こうとすることは、殊勝な行いだと思うからです。

ただ、
負けたから価値がない
2番以降じゃ意味がない
なんてことは決してないと僕は思います。

常に周りの誰かと競争をするように僕たちは小さい頃からプログラムされているだけで、
勝ち負けや順位などの誰かが定めた指標
その人の価値も能力も決まるはずがありません。

だから、ほどほど で当たり障りないのが一番いいんです。


勝ちも負けも生まない。
どっちが正しいか悪いかなんて決めない。
優れているか劣っているかなんてわからない。

なにかにつけて 二元論に逃げない。
3つ目、4つ目の選択肢を考える。

順位や偏差値などは、決められたルールの範囲での結果でしかない。
それ以上でも以下でもない。


そういう心持ちでいた方が
心穏やかに他人に優しくできる。

そして、その与えた優しさは
自分のところに返ってくる。

だから、僕はこれからも

ほどほどな心持ちで
何かで勝っても負けても
他人に対する優しさ、礼(感謝の気持ち)
だけは失わないように心掛けていきます。


僕が 柔道で得た最善の教えは

『礼にはじまり、礼に終わる。』

ですから。



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