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プラハ①[2024.2.25]

思い立ったかのように、ヨーロッパ旅行の続きを書く。2月24日まで一人で旅行していたのだが、25日以降は高校の友達と一緒に回っていた。そのため24日で一区切りついた感があり、記録を一旦やめていた。

なぜ急に旅行の記録を再開したのかというと、多分、先日クラブに行ったからだろう。友人が外国人客に話しかける様子を見て、ドイツで泊まったホステルのことを思い出した。それで、旅行の記録、最後まで書いてないなって。

24日の朝のことは鮮明に覚えている。朝食はバイキングだった。バイキングと言っても、小さなホテルのバイキングなので、何十種もの料理が並んでいるわけではない。8時21分の電車に乗れるか心配だったので、少し早めに部屋を出た。スーツケースも持って降りた。7時半前に朝食の部屋に行くと、ホテルのスタッフを除いてまだ誰もいなかった。入っていいか?と聞くと、どうぞ、と言われたので、手前の椅子に座った。

何を食べたかまでははっきり覚えていないが、思いのままに色々とった記憶がある。なぜならちゃんと朝食を食べられるのは久しぶりだったから。できるだけ食べておこうと思った。最後にヨーグルトを食べたのは覚えている。日本のプレーンヨーグルトと同じ味がした。

意外と早く朝食がすみ、余裕をもってホテルを出ることができた。ホテルからブラチスラバ駅までの道のことは、よく覚えている。なぜなら、英語をつぶやきながら、向かったから(??)。僕は普段、暗唱した1分程度のフレーズを口に出す練習をしている。それで、駅までの道中、誰も歩いていないので一人でしゃべっていたわけだ。I spend my days, doing something that I'm very excited about. I help leaders and managers in mostly large organizations. Make better decisions, be more reflective, …ってね。

まるで空気が透き通るような、清々しい朝だった。散歩にちょうど良い。ホテルから駅までは下り坂で、スーツケースを引っ張る身としてはありがたい。昨夜、上り坂であれほど苦労したのだから。

高架下のトンネルをくぐって右に曲がり、階段を上ると朝日に照らされるブラチスラバ駅が見えてきた。構内はすでに旅行客でがやがやしている。ゴミ箱の中に食べ物が落ちていないか血眼になって探している者がいれば、旅行客に金をくれとせがむ者もいる。すでに見慣れた光景だ。

定刻より遅れて、REGIOJETのプラハ行きの電車がやってきた。不安げに到着予定時刻の掲示板を見ていた旅行客たちが、ぞろぞろとプラットフォームに向かう。

電車の中で何をしていたのかは、覚えていない。前日までと同様、旅行の記録を書いたり、本を読んだりしていたのだろう。斜め前の男子学生が、机に分厚いペーパーバックを置いていたのを覚えている。車窓から見えるのは寒々しく立っている針葉樹林ばかりで、つまらなかった。

予定では12時37分に到着予定だったのだが、大幅に遅れた。約60分遅れ。プラハ駅で友達と会う予定だったので、待たせてしまった。彼もヨーロッパを旅行しており、25日から3月1日までは予定が被っていたので、一緒に回ることにしたのだ。

会って、まず昼食にした。とにかく何かが食べられればそれでよかったので、近くのバーガーキングに入った。旅行の経過を色々話しあったと思う。彼はヨーロッパに来る前エジプトに行っていたのだが、コシャリという料理がとてもおいしかったと言っていた。何やらご飯にパスタとか、マカロニとか、豆とか、いろいろ混ぜるらしい。ネットで調べると美味しそうに思えるが、彼から見せてもらった現地の写真は、それほどおいしそうでもなかった。

食べた後は駅周辺を少し散策した。プラハは寒い。これまで回ってきた都市とは明らかに気温が違う。空気が冷え込んでいる。彼はすでに駅周辺を見て回ったらしいが、特段面白いものはないらしい。スーツケースのキャスターに悪そうな石畳の上を歩きながら、ぼんやりと見て回った。クリーム色の建物が目につく。観光ということにそろそろ飽きている時期でもあったから(昨日のブラチスラバはとても面白かったけれども)、何か見て回ろうという気分でもなかった。

解散して、夕食の時にまた会うことにした。僕が泊まるホテルはプラハ駅から少し離れたところにあった。歩いて行くのはさすがに遠いので、トラムに乗った。ホテルの最寄りはNádraží Vršovice駅。なんて読むんだろうね。

受付のおばさんはとても親切な人だった。何を話したかは覚えてないけれど。日本のどの街に住んでいるのか書いてくれと言われたことを覚えている。県を書けばよいのか、市を書けばよいのか、よく分からなかったので、どっちを書けば良いのかと聞いたが、返答はよく分からなかった。

部屋に入って、Wi-Fiが驚くほど弱いことに気づいた。ほとんどインターネットが繋がらない。まぁそのぶん本が読めるからいいや、と思ってドイツに関する本を読んでいた。プラハの次はベルリンに向かう予定だから。夕方まで時間があるので、本を閉じてしばらく昼寝をした。

17時ごろ、少し早いがホテルを出た。まず、ホテルの周りにお店があるのか確認。トラムの駅から歩いて1分ぐらいのところに雑貨屋があるので、中に入ってみた。高い、というのが正直な感想であった。もう少し安い値段で水を手に入れられるはずなので、ここでは買わないでおいた。すぐに店を出るのもなんだか申し訳なので、興味ありげに店の中を見て回って、外に出た。

どのトラムに乗ればプラハ駅に着くのかよく分からない。ホームにいた若い女性に聞いた。6系統に乗って、jindřišská駅で降りればよいとのこと。寒さで待っているのも辛い。こちらの人は、フードを被っている人が多い。寒さしのぎになるからだろう。

20分弱、満員のトラムに揺られた。駅で友達に会い、適当に店を探す。あまり空いていない。あらかじめ決めとけよ、という話なのだが、僕たちは高校の時からこんな感じなのだ。

やっとのことでピザの店を見つけ、悪くないメニューだったので中に入った。プラハは本当に寒いので、店の中に入っただけでほっとする。

プラハのビール。風邪気味なんだけど、せっかくなので(ここでビールを飲んだことが一因となって、旅行の最後まで風邪を引きずることになった)。

何を話したっけ。なぜ日本は(世界的に見れば)豊かなんだろうね、という話をした気がする。海外に来ると、日本との比較がしたくなるものだ。国内では日本の将来を悲観する声ばかりだが、それでも世界第3位の経済大国である(ちょうど2月に名目GDPでドイツに抜かれたことは置いておこう)。

旅行中に読んでいた本がちょうど解を与えていた。前提として、戦後の日本は異常なほどに経済が成長したと言えるだろう。というか、それだけのことである。永遠に経済成長するわけがないので、上がるところまで上がればいずれ落ちていくのは当たり前のことなのである。

戦後の日本はいくつかの好条件にめぐまれた。①吉田茂という優れた指導者がいたこと。②軍事のことはアメリカに任せ、経済に集中できたこと。③アメリカという製造業のロールモデルがあったこと。④ドッジラインによる緊縮財政であったこと。⑤朝鮮戦争が特需をもたらしたこと。⑥人口増加。
そりゃあ、この条件が揃えば、経済も成長するでしょう。逆に、今はどの条件も満たされていない。与党はうにゃうにゃしてるし、東アジアのことは気にかかるし、サービス業の時代だし、金融政策頼りだし、特需はあるはずもなく、少子高齢化には拍車がかかっている。

久しぶりに、人と一緒にご飯を食べて心が満たされた。一人旅中に心を許せる友達とご飯を食べることほど、安心感に包まれるものはない。また明日、と言ってお互いのホテルに戻っていった。

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