見出し画像

『ノートに詩を書くヤツ』が死ぬ程嫌いだった。

小学生の時、クラスメイトの女の子がよく『ノートに詩を書いて』いた。


『詩を書いて』なんて断定しているが、彼女は僕がノートを覗き込む度にそれを隠していたから、それが果たして『詩』なのか『詩以外のなにか』なのか判別は付かない。

でもちらっと覗いたそれは、明らかに心の内面をぶちまけた何かの文字列だったし、その中には星や薔薇と言った耳触りの良い言葉でコーティングされた比喩表現もたくさんあったから、当時の僕にはもう詩である必要条件を満たしているように感じた


当時僕は彼女を明らかに軽蔑していた。
成績も運動も容姿もパッとせず、笑う事もなければ泣くこともない彼女は、クラスメイトというよりは、風景の一部であり、人格を持った何かには思われなかった。(極端に理知的な人間にも、僕は同じ感情を抱くことがある。)


そもそも『詩』なんてものは、国語の授業の一環で書いて先生に褒められるためのものだったし(幸い、国語の成績は良かった)、人に見せて褒められる為に書く意外の動機を想像するには小学生男児の脳みそは小さすぎた。


誰も読まない文字列を、誰にも見せずにヒソヒソと書くその行為は、当時人前で何かをプレゼンすることを得意としていた僕にとっては全く理解できない行為だったし、文字を書くのは授業を理解するためにノートをまとめるか、好きな人に想いを届けるラブレターくらいのものだと思っていたからだ。(もちろんそのラブレターは詩に満ちている。でも、人に見せるんだから全く軽蔑の対象にはならない。誰がその詩を軽蔑できるだろうか?

とにかく、誰にも見せない前提で書く言葉(詩)なんてものは、職業物書きのみが紡げる特権的な物だし、僕の知っている世界にはそもそも存在しなかったし、もし存在したとしてそれは明らかに道理に反した行為で、素人が紡いではならない類の何かであるように思われた。(ここで指す素人と職業物書きが何を指しているのかは僕にも全く分からない。でもそれは問題にはならない。)

そして高校に進学した。
地元ではそれなりに進学校とされていたそこは、僕にとって地獄だった。


当時の僕にとって勉強は、楽しくて自分のためにするものだったが、そこにいた奴らに話を聞くと判で押したように、一流大学に入って親を見返す、内申点を稼いで早慶の推薦枠を取って一流企業に入るんだと言い、それは人生は於ける全てであり、普遍的な真実なんだと信じてやまない様子だった。

実際そう言っていた奴らの一部は、高校2年の春には部活を辞め、受験勉強に取り組んでいた。(実際こう言った人間は1割だったが、その1割がクラスを牛耳るポジションにいる環境だった。彼らはなんとなく室内で飼われているオウムみたいな感じがした。



その様はなんとなく寂しくて、彼らの笑いは悲鳴と同じ色を帯びているように感じられた。

いわゆる偏差値的な学力のみを自信の根拠として、全く平板かつ個性の欠片もない言葉の羅列を用いて他者を嘲笑う彼らを心から軽蔑していたし、それを面と向かって言えない自分には失望していた。(最も、独創的かつユーモアに溢れた言葉で他者を嘲笑う高校生が居たとしたら、そいつは天才と呼んでいいと思える。)



その時ふと「あぁ、おれコイツらと仲良くなるん苦手かも。」と思って、ある時から意識的に友達を作らなくなった。
そして、高校2年の冬にはクラスで話せなくなり、コミュニケーションの取り方が分からなくなった。
必然的に学力も落ちるから、ついには高校で話すことも出来なくなってしまった。
結局、自分自身もいわゆる偏差値的な学力のみを自信の根拠としていた1人なのだ。



今思い返すとアホやなぁと思うのだけれども、当時の僕にとってはそれなりに重大な変化だったし、それなりに落ち込むには十分すぎる理由だった。

高校で話せない代わりに、色んな人たちとの出会いを渇望した。

帰宅部で寂しかったから、好きな女の子がいるという理由だけで嫌いな演劇部にも入った。
中学から続けていた歯列矯正の都合で、月に1回は兵庫の西宮に行っていたから、奈良へ帰る電車は必ず鈍行に乗って、適当な駅で降りて個人がやっているお店のオーナーと仲良くなるまで帰らないゲームを密かに行ったりもしていた。(この体験は今になっても大切な人生の一部としてキラキラと光っている。)

同級生と話せないコンプレックスを、日常を理想通り上手く過ごせないイライラを、僕の価値観を否定してこない大人を見つけて適当に駄弁っては、大人と仲良く話俺カッケェという自意識の上塗りで誤魔化し続けていた。

そしてその屈曲した自意識の尖りは、高潔な薔薇と同じなんだと信じ込んだ。

そもそも、何かを言ったら批判される可能性がある同級生に、何かを話せるほど僕の度量は大きくなかったから、そんな状態で何かしてもなんの意味もないのに。



そんな生活を続けていたある日、僕はとある喫茶店のオーナーさんと仲良くなる。(去年の公演のモデルとなった彼です。)
彼は物凄く芸術全般に詳しくて、淹れたコーヒーは何故かフルーツの味がした。
苦いんだけど、甘くて、トロッとして、フワフワしていた。

高校に入ってから演劇部に入り、いわゆるオトナな趣味(例えばそれは芸術や服飾、珈琲)に傾倒していた僕にとって彼は、兄であり、友人であり、恩師であった。

ただ、彼は詩を書いていた。
その一点においてのみ、僕は彼に対して若干の違和を感じていた。
素人が易々と言葉を紡いではならないのである。

ただ、その違和は全体に比べれば本当に小さなもので我々の関係に影響を及ぼすことはなかった。
しばしば彼の自宅に行っては、CDラックと本棚まみれの部屋で、積み木を使って遊ぶ息子さんらとお嫁さんのそばで、コーヒー片手に様々な画集や文学全集を教えてもらった。


そんな彼に、高校に入ってからのコンプレックス打ち明けた日のことである。
彼は僕の話を聞いてから「それ書いたら良いじゃん。詩とか書かないの?」と言った。
『詩』という言葉自体にアレルギーを持っていた僕はそれを過剰なまでに否定した。(だってその時の僕にとって素人が書いた詩とは前述の通り悪魔そのものだったのだ。彼もそう言った意味では悪魔の1人なのだ。)彼はちょっと悩んでから種田山頭火の詩集を持ってきて、僕にくれた。

意図がわからず困惑していると、彼はその詩集の好きなページを見せながら、「詩っていうのは、自分を救う為に書いた何かが未来の自分や他の人をちょっと励ましてくれるツールやと思うから、まぁ、試してみたら?」と言われた。
それ以降彼は喋らなかった。
意味がマジでわからなかった。

彼はそんな僕を意に介さず、自分で書いた詩を読みながら珈琲を淹れていた。
意味はもっと分からなかった。なんなら、少し嫌だった。


…時は過ぎ、僕はレールから外れる為に大阪芸大に進学し、彼は先天性の持病でお星さまになった。
お葬式には誘われたが、なんか嫌で行かなかった。
その決断は今でも後悔していないし、彼は僕の中で最も都合の良い形で生き続けている。(貸し1だと彼には伝えたい。)

そして最近彼の喫茶店のInstagramを覗いてみた。

そこには彼があの時に読んでいた詩があった。
それを読んだ時に、初めて彼が言っていたことが理解できた気がした。
彼が居なくなって産まれてしまった空洞に、スッと言葉が入ってきて、一時的にだがもう一度会えた気がした。
そして、少し泣いてしまった。
本来なら内容に触れるべきなのだが、そこを書く度量はまだ無いし、それがあったとしても書けるかどうかは分からない。
大切なのは、初めて詩というものを通して何かに触れられたという肌感覚なのであって、言語に変換可能な何かではない気がした。

その時にふと昔のクラスメイトの彼女を思い出した。
そして少しだけ当時の彼女の心境を理解したような気がした。

彼女は誰に見せる訳でもなかったけど、きっと彼女の中にある物凄くグラグラとした、でも大切な何か『詩』に閉じ込めていたんだろう。
多分そこに意味はなくて、ってか意味とか考えていたら訳がわからない訳で。
それは誰かに見せる必要はなくて、でも書かないと多分メチャクチャになってしまう類のもので。
直視できないから、星や薔薇といった耳触りのいい言葉でコーティングせざるを得ない訳で。
ことばも支離滅裂だけど、とにかくその何かを自分で抱きしめる為にそれを書いてたんだろうなと思ったし、彼女にはそれを見据える強さがあったんだろう(彼女に取っては余計なお節介だろうね、ごめんなさい。)



そして、僕もなんか『詩』を書こうかと思いたった。

星や薔薇でコーティングしないとどうにもならない何かを直視しようと思った。
けど、僕は短歌や詩を書けるほどの才能はないし、誰にも見られない文字を産み続けるほどの熱量もないし、誰かに呼んでもらって何か言って欲しいエゴだけはあるから、こうやってnoteにつらつらと文字を書いては、ただただ『ノートに詩を書いて』いる人間になれないジレンマから目を逸らし続ける。



いつの日か、僕も『ノートに詩を書くヤツ』に成れれば良いのだけど、そんな度胸もありそうに無いから、とりあえずこんなコンプレックスをたまには吐き出して行きたい。と思う。

『 焼き捨てて 日記の灰の これだけか 』
種田山頭火

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?