「三島由紀夫論」

メッチャ読み応えのある700頁の本であった。

主要作品を精読して、ここまで三島由紀夫の人生に深く斬り込んだ評論に接するのは初めてだ。

平野啓一郎さんって人はスゴく頭がイイ、天才なんだなぁ。羨ましい限りだ。同じ三島ファンだとしても、俺とは視点も分析力も全く違う。

執筆開始から23年もかけた大作。「仮面の告白」「金閣寺」「英霊の声」「豊饒の海」の4作品を材料に、三島の人生を4つに分けて、文学者としての表現活動と、後半の右翼天皇主義者としての行動とを結びつけて、自裁に至った経緯を紐解いてみせる。

幼少時、祖母をはじめ女たちに囲まれて育ち、肉体を蔑ろにして精神だけが肥大化し、青年時は病気で徴兵を落とされて、周りの死んでいった仲間に対して引け目とコンプレックスを持ちながらも、書くことでかろうじて生への執着を残す。

海外渡航で肉体賛美に目覚めて健康を手にするものの、やはり自分の生には絶対者かつ悲劇的なものが必要不可欠であると悟って、それを天皇という日本国の文化概念に求めることに。

周りをわかりやすいハッキリとしたモノで固め、敵(共産主義)を決めて行動し、絶対者を求めれば求めるほど、自分の個という存在があやふやになって、ただ無、つまりは死に回帰する。

自ら生み出した美の世界を突き詰めれば、現実世界との乖離が大きくなっていく。それを整合性を持って合一させるのは、ただ死でしかないのだ。あとは狂うしか道はないから。まさに「絶対を垣間見んとして…」の一生だ。

ちなみに、三島が考えた文化とは、常に能動性を持った連続するものであり、雑多さや広汎さ、包括性を維持し、現実世界からの介入を拒絶するもので、アナキズムに近い。その文化の全体性に見合う唯一の価値自体として到達すべきが天皇であって、日本の本来性へと立ち返るための革命の原理なのだ。だから現状肯定の存在であってはならない。

絶対者を求めながらも、「虚無へ向かって引きずってゆかないものは必ず贋ものだと思う」という三島由紀夫は、死への憧憬を置き去りにすることはできなかった。

著者は、戦争体験と責任概念、ニヒリズム、共同性への憧れと絶対者との同一化願望、エロティシズム、自己処罰と言う視点と、戦後の生命尊重主義へのアンチテーゼという側面からも、三島由紀夫の一生を分析する。

最後の長編「豊饒の海」全体を貫く主題は、現実と言葉との乖離であり、認識者たる本多の誤認である。
最後の最後にて、自分の存在を確認するために聡子に会うが、「もともとあらしゃらなかったのと違いますか」と言われる。
「本多さんがあるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだというのではありませんか?」
「私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」ということだ。
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。」。

結局、全ては無に帰する…恐ろしいことだ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。