「はじめてのウィトゲンシュタイン」

はじめての…だから入門書だと思うけど、やはり難しかった。イヤになっちまったぜ。

ウィーン出身の哲学者ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタインが、その著書「論理哲学論考」で書いたのは、「有意味に語りうること」と「有意味には語りえないこと(語ろうとしても無意味になってしまうこと)」との間に境界線を引くということらしい。

つまり、小難しく哲学的に、大きな意味があるように語っていると思い込んでるが、実はそうではないということを実証してるのである。

考える、哲学するってことは、大抵、どのように生きようか?コレをどう捉えるか?コレは何だろう?の三つ。人生論と認識論と存在論だ。しかし、こうした問題は全て、人々の言語使用の混乱から生じた、全く意味のない問いと答えの応酬に過ぎないというのである。

こうして、語りうることの限界を明らかにすることで、古代から論じられてきた哲学の問題を一挙に解決しようとしてるのだ。

すなわち、哲学的な問いに対する解答を、我々が与えようとしても、どうしても有意味な言葉になりえない(語りえない)ということを証明し、それによって、哲学の問題を疑似問題として葬り去ろうとしてるのだ。

世界に生じうる事態、全てを語ることができる言語を想定した上で、その言語ですら何が語りえないかを明らかにするが、その一つは論理である。

論理とはこうであると原理的に語りえないからだ。有限な存在である我々は、命題を構成する要素を常に有限個しか持ち合わせていないが、有限な要素を組み合わせることで、有意味な命題を無限に産出していくことができる。

世界が存在するとか言うのは、実のところは何事も語ってはいない。論理それ自体を対象化して語るということが我々には不可能であるのと同時に、存在それ自体を対象化して語ることも原理的にはできないからである。

ウィトゲンシュタインは、哲学は本来、自分自身に関する仕事であるという。自分がどういう考え方をしているか、自分が物事をどう見ているか、なのだ…。

「本を読む」は現実であることも、現実でないこともある。世界はこのうち現実であることの総体である。だから、現実であることは語られるが、現実でないことは語り得ないということになる。…もういっぱい、いっぱいだ。

世界は?存在は?なぜ生きる?なんかよりも、俺が今、大きな興味があるのは、人間の思考の仕組みだ。脳細胞に血が流れて、そこで何か変化が起こってるのかどうかわからないが、どんな仕組みで“考える”ということが成り立っていくのか?である。それに優劣があるなら(バカと天才)、具体的に、脳の細胞の回路がどのように違うのか?血を原料に、脳細胞がどういう動きをして、思考というものが発生するのか?である。分野は脳科学になるのかなぁ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。