「惑星の風景」

若い頃、「チベットのモーツァルト」を読んだ(よくわからなかった)ことがある思想家・中沢新一先生の初の対談集。

民俗学から宗教学(主にチベット密教)、文化人類学と、手広く縦横無尽に研究の対象としている通り、対談相手も多彩だ。半分くらいはわからなかったけど(笑)。

以下、いくつか感銘を受けた部分。↓

「外から見た日本は、自然をこよなく愛していて、それは芸術作品に他ならない庭園からも伺えるが、同時に、産業開発のために、自然に対して並外れた暴力性を発揮している」

「ユダヤ・キリスト教の神様には失敗をしないという特徴がある。神様は絶対に失敗をしない。でも、日本の神話を見ると、国を作ったり、文化を発明したりする神々は多くの場合、失敗を犯して、その失敗の成果が、かえって人間が手にする文化になったという、とてもデリケートな表現がなされている」

「過ちを犯すことによって、自然から文化への橋渡しをする」

「日本の宗教に顕著なのは、神々が、ブッダや菩薩よりも低い位置を占めていることのように思われる」

「かつて人間はエコロジーへの関心などを抱いていないにも関わらず、今日よりも、はるかに優れたエコロジーを実践していた。往古の知恵とは、自然との関係を維持する最良の方法を知ることであり、自然の法に従うことであり、自然を理解することだった。現代の我々は、この意識と感覚を失ってしまった」

「心というものが働き始めた時、もう宗教は動き始める。人間の心が脳から自由になって、動き出すものがあるから。宗教は、人間が自由な心を持ったその条件であり、土台として作られてくるものだから」

「日本人の知の表現は、哲学ではなく、お花とかお茶とか、庭園だとか建築とか、もっというと祭りや踊りとか、早い話が芸能だと。日本人は芸能を通して思想を表現していた」

ふむふむ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。