「脳卒中リハビリ日記」

もう40年以上も前の、多分、著者も亡くなってるであろう古い本。古本屋で投げ売りされてたけど、俺には関連することなので。

元新聞記者の著者は、脳血栓(ドロドロ血で血管が詰まる)となって、運動麻痺(右片麻痺)と酷い失語症が残ってしまった例だ。

発症の5ヶ月後、入院中から言語訓練の一環として書き綴った日常のアレコレである。

俺も、37㍉の左視床下部出血で、ステージ3の大きな右片麻痺が残ってしまったけど、幸いなことに多分、失語症はなかったと思う。右顔面下部に麻痺が少々あるから、しゃべりにくいことがあるだけだと考えてる。

脳が言葉を失ってしまったのではなく、言葉はしっかりと残っているけど、それを処理して伝達する機能(認知、判断、思考、選択、組み合わせなど)がやられてしまったのだ。

著者は書いている。
「いろいろと考えてるうちに、考えるということはしょせん無駄なものだということに気付いた。無駄ということを悟るとは矛盾もはなはだしいが、頭で考えた結論であるので仕方がない。そんなことを考えてると、急に世の中が馬鹿馬鹿しくなってきた。この疑問にどう答えたらよいか」
壊れた脳で、壊れた身体のことを思うのだから、仕方がないのかもしれない。

昔の本だけど、「脳の組織が破壊されて片麻痺が起こっても、機能訓練(つまりリハビリ)を続けると、下肢の麻痺は次第に回復して、やがて歩けるようになることがわかってきた。また麻痺した手も動かせるようになる事実が知られてきた。失語症の言語の回復についても、この機能の修復機構が極めて大きな意味を持ってる…云々」(脳の可塑性のことだろう)とあるが、どの程度のことだろうか?

壊死した神経に代わって、他の部位の神経が手を伸ばすのは、毎日、とてもハードにリハビリを続けたとしても、年に1㍉あるかどうかと聞いたけど。

成果のハッキリとしないリハビリくらい辛いものはないねー。だから、歯を磨いたり、シャワーしたりと同様に、リハビリを“日常”にするしかない。そのために俺は必ずノートを付けている。もうすぐ10冊目になる。

発症当初は皆、頑張ってリハビリを続けているけど、たいてい途中で諦めていく。そして、中には、動かない身体を置いといて精神的なもの(スピリチュアル)を求めるようになっていく者もいる。挙げ句の果てはカルトだろう。

どんな形でも、リハビリを続けていけば、いずれは全てが連動して、無理のない正常な活動を求める方向に働くものだと俺は考えてる。その程度は人それぞれであるけれど。

脳卒中になると、途中から症状が前よりも悪くなってるという不安にさいなまれる「後退癖」についても触れている。多分、回復への過剰な期待と実際の状況とのギャップから、そのように思ってしまうのだと考える。

「求めず、急がず、しかも悠々として休まず」と著者は書いている。

紹介されてる「失われた世界 脳損傷者の手記」を読みたいけど絶版だ。残念。



脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。