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50歳、脳出血で倒れる。

以前からブログで書いてたものを再度加筆修正して…。


よりによって記念すべき50歳の誕生日に…。


生きていれば、
そりゃあ間が悪いことなんてよくある。

それにしても、だ!

よりによって記念すべき節目の誕生日が、
人生最大の、どん底の節目になるとは。

それは、2014年に「天命を知る」50歳の誕生日直前、

10月14日のその前々日、12日のことだった。

東京・あきる野市の、友人N崎くんが経営するコンビニの夜勤手伝いが終わって、

その友人宅で仮眠をとらせてもらって昼前に起きた俺は、
突如、体が動かなくなった…。

起きぬけでボーっとしているせいかと思ったのだが、

急に頭の後ろがお湯を垂らしたように熱くなり、

だんだん身体からシナーッと力が抜けていったと思いきや、
頭をベッドに載せたまま、
そのままくずれるように床に倒れた。


意識はあったが、まるでスローモーションを見ているようだった。


あー。これは、なんだかよくわからんが、

ひじょーにまずいことが起きたんではないか?


朦朧とした頭で、ただごとではない事態に陥っていることだけはわかった俺が、
とっさに取った行動が……。

なぜかiPadのエロ画像とか動画とか、隠すか、消さなきゃ、と思い、そばにあったiPadを手に取って、ソッコーで処理したのだ。

決してその時リアルに鑑賞してたわけじゃないけどね。

「ヤバイ、血管切れた!」
となんとか血の気の抜けた頭で納得。


まだ動けるうちにと、世話になっていた友人N崎くんにガラケーで通報。

「助けてけくれ~、か、身体がうううううう動かねえええええ」


「わ、わかった。待ってて!」
ありがたいことに、友人N崎くんは事態が一刻を争うことを本能的に察知してくれた。


この場面で、
「なにふざけてんだよー」とか「いま忙しい」なんて展開になってたら、おそらく今の俺が置かれている状況は全く違っただろう。

友人N崎くんには感謝である。


ピーポーパーポーと、遠くからサイレンが聞こえ、
すぐに救急車が来たような気がする。が、定かではない。

このあたりから、記憶は薄霧の中に消えていく。


ワーワー騒ぐ声が耳元で聞こえ、持ち上げられ、

誘拐される人みたく、布にくるまれて運ばれていった。


たぶん。

運ばれていく時、友人N崎くんが俺を静かに見下ろしていたのは、はっきり記憶している。

俺は、
「あ、しまった、パンツ一枚だ。ちょー恥ずかしい。あれ? なんでパンツ一枚なんだっけ? エロ画像でも見てたんだっけ」


そんなとりとめのないことが頭のなかをぐるぐる巡っていたように思う。

人間、どんな事態でも、頭の中は動いているものなのだ。


表通りで救急車に乗せられた。

外は異常に明るかった。


救急車の中はボンヤリとだが覚えてる。


「あーあ。これが救急車の中かあ。初めて乗ったなあ。一度乗ってみたかったんだよなあ」。

だいたい覚えているのはこのくらい。


そこから一週間ほど記憶がない。


そして、死ぬまで会わないだろうなって思ってた両親と対面…。


実は搬送されたこの時、上の血圧が220を超えていたとあとで聞いた。(^◇^;)

高血圧症による左視床下部に37ミリの脳出血。

後遺症は右半身麻痺、つまり片麻痺。

あと右下部顔面麻痺と複視。

とりあえず東京・青梅の病院に運び込まれた。

目が覚めたときに、まっ先に思ったのは、「あっ、生きてる」だった。
浴衣みたいのを着せられ、オムツをつけて、ベッドに寝てた。


いつの間にやら気がついたら寝てたという感じ。


メガネを取られ、極度の近視の俺は周りもボヤッとしてて、
あまり見えない。

相部屋らしいのだが、誰がいるのかもわからない。


結局、緊急搬送されてから、かなりの日数が経っていた。


あーーーーまだ、生きてるよ、俺。

TATTOOはそのままだけど(当たり前だ)、全身24カ所にしてた
ボディピアスも取れるところは外されてた。


両耳10個、
両乳首1個づつの2個、
眉・リップ各1個の2個、
取られてないのは両前腕にマイクロダーマル(埋め込みピアス)各1個の2個、
舌に1個とその下に1個。

アソコは竿に4個(真珠入れみたいなもん)、袋に2個だ。


久々に両親に対面した。
両親だけじゃなく、ありがたいことに( ´艸`)東京に住む親戚も来てた。


ああ、こんなになっちゃって…という感じで恥ずかしいやら何やら。


TATTOOもピアスも隠してたから、

さぞ親はびっくり仰天したことだろう。


腰を抜かしたかもしれない。

いやもうまったくもってなんただかなあ、である。

今思えば、そのとき、どんな話が交わされたんだろう。


10年ぶりくらいに会った両親は、当然ながら老いてた。

多分、死ぬまで会わないだろうと思ってたのにね。


オヤジは終始グチってばっかりだったが、お袋さんは何も言わずに優しかった。


このお袋さんのやさしさがまた、こたえた。


「このバカ息子がぁ!!!!」
と罵倒されるほうが気が楽だったかも。


お袋さん、
ごめん、ほんとに。


友人、後輩たちもたくさん見舞いに来てくれた。

ありがたや。


といいつつ。
ごめんなさい。じつはあんまし覚えてないのだ。( ̄▽ ̄)


でも、さびしくて、人が来るのが待ち遠しかった。


誰でもいい!
来てーー!
独りにしないでー!

そんな気分。


とにかく毎日が不安だった。
俺、これからどーなるんだろう? って。

なぜか夜がコワくて眠れない…

半身マヒだから、当然、右腕、右脚が動かない。


それだけならまだしも、
だる~い、重~い感じ。

あー、こうなるんだ。


前に脳梗塞になった人を何回か見たことあるけど、まさか自分がね~、
って感じ。

なんとなく予感はあったけど
でも、この時はまだそれほど実感がない。

とにもかくにも、まずはプロボウラーのスコア並みに高い血圧をさげなければ。

というわけで薬は降圧剤。朝夕の食事の後に。


主治医の先生は、たまに顔出し、

「大丈夫ですかあ?」

と聞くだけだった。

まことに、そっけない。

「いやあ、まったく大丈夫じゃないですよ、あははは」
といい返したかった。


まだ若い二代目ドクターで、いかにも不良中年の俺になんか関心なんかないといわんばかありの態度、イヤな感じだったなあ。

もちろん、文句いえる状況ではありませんが。

多分親と話したのかな。
レントゲンとか検査とかしただろうし。

詳細は不明。


やっぱり、TATTOO、ピアスしてたから?


なぜか夜がとても怖い。

部屋が真っ暗になるのがスゴい恐怖なのである。

友人が持ってきてくれた小ちゃなラジオをイヤホンで聴いてて、モンモンとして朝方まで過ごす日々。


結局、看護師さんに睡眠薬をもらって、
強制的に眠った。

なにが困ったって、食事がままならないのには参った。

なんたって、右手がまったく動かないのだ。
これまで当たり前に右手で箸やスプーンを口に運んでいたのに、
それがまったくできない。

これはショックだった。


左手一本では思うように食べられず、ちょっとおばさんの(失礼。メガネがないからよく見えなかった)看護師さんがとてもやさしく介護してくれた。

これは情けないという思い以上に、素直にうれしかった。

カラダがこんなことになってるのに、

食欲はふつうにあった。

カラダが半分動かないんだからエネルギーも半分しか消費しないだろうに。

ちょこちょこしゃべっているうちに、その看護師さんが好きになった。

とにかく、やさしくしてくれるすべての看護師さんに親しみを感じ、安心感が増した。

看護師という仕事、すばらしいです。


それはよかったんであるが…


相部屋の左隣のベッドのジジイが、

ボケてて夜中に声を上げたり、いきなりカーテンを開けたりして、

これにはさすがに閉口した。


反対側のベッドのおっさんも看護師さんに文句ばっか言っていた。

「こぉらあ、おれの女(看護師さんです)になんて口ききやがるんだ!」

と布団をかぶって毒づいてやった。


入院してから一週間くらい、ウンコが出なかった。

ある日、10分くらいねばってオムツに出た時は、

おかしいけど、

ああ、カラダが普通になってきた、

と感激した。

若い看護師さんが下の処理してくれても、全面的に信頼していたから、
もう恥ずかしいという気持ちはなくなってた。

それどころか、ああ、もっとイジってというマゾ的気分にたびたび襲われた。

この看護師さん、TATTOOやピアスに興味シンシンらしく、

いろいろ質問してくるのも、なんだかうれしかった。


そういえば、最初に外されたピアス、どこいっちゃったんだろ。
まさかあの看護師さんが…。
なーんて考えるとまた夜眠れなくなるのである。

一週間に一度、お風呂タイムがあった。

ストレッチャーに寝たまま、お湯をかけて洗ってくれた。


そんな時も同じようにイジられ気分を感じていた。


おそらく、キューっと梅干みたいにしぼんでいたであろうピアスだらけのイチモツのことも皮かぶってようが、なぜか一向に気にならない。

こんなときに「マゾ的」性癖に気づかされるなんて。

ある日、友人N崎くんがメガネを持ってきてくれた。


薄ぼんやりとした視界が一気に広がり、気分もシャキッとなった。


鏡を見た時、予想に反してそんなに右顔面が落ちていなかったことにホッとした。


しかし、ここであることに気づいた。

物が全て二重に見える。

いくら目をこらしてみても。


おかしいな、なんでだ?


緊急搬送から2週間後。車椅子で実家の熊本へ…。

10月28日、東京の病院を退院することになった。

飛行機で実家のある九州は熊本の病院に移動することに。


そっかー、2週間以上もいたのか。


まるでぶっ倒れたのが昨日のことのようだった。

福岡に住んでる弟も移動の手伝いに来てくれた。

朝、介護タクシーで車イスに乗り、羽田空港まで。

コンビニで世話になった友人N崎くんよ、
ありがとう、
さようなら。
迷惑かけたね。
こんなになってごめんなさい。

親と親戚が転院から何から、いろいろ手続きしてくれたみたいだが、
俺はわからない。

あわただしいのと、意識がときに朦朧としたりで、
記憶がよく途切れる。

病院を出るときの記憶も曖昧で覚えてたり覚えてなかったり。


車イスで空港を移動する時、サンドイッチをパクつきながら、
周囲の眼にさらされ、

ああ、ついに俺もこうなったか…と改めて実感したのは覚えてる。

青梅の病院にいるときから、
病院のスタッフによる簡単なリハビリがスタートしていた。


平日の午後、車イスでリハビリの部屋に移動し、麻痺しているほうの手脚を簡単に動かすのだ。

スタッフのおっさんは、黙ってもくもくと俺の身体をほぐしてゆく。

が、スケジュールが決まってるみたいで数十分と短い。
しかも事務的。


もっとやってよと思ってたが、そんなこと言えなかった。


そして、熊本の病院に移って、
ここから長~い(多分、一生?)リハビリ生活の始まりとなる。

つづく。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。