「言葉を離れる」

三島由紀夫とも交流があり、リスペクトする美術家の横尾忠則氏が、文芸誌「ユリイカ」に連載した、一応、“読書”に関するエッセイ集。

横尾氏は、50年代から、素晴らしいデザイン作品や絵画を創作してきた訳だが、「自分の中にある本体というのが、科学的に解明できない魂のような、また霊なのか、そういうものが常に解放されたがっているような気がするわけです。肉体があるから邪魔になって、それが外に出ない、眠ると同時に解放されるわけです。自分の中の何かが出ていってるとか、また入ってきたとか、とかいう感じを実感するんです」と言うように、若い頃から、精神主義や神秘主義、スピリチュアルに大きな関心を持っている。

現実主義の俺に言わせれば、そんなものは“全くない”もので噴飯物なのだが、素晴らしい芸術家が、表現する過程で、内省的に精神を遊ばせ、信仰に近い形で、人間の行動の全てをそれに結び付けることはよくあることだが(美輪さんもそう)、その分、作品が素晴らしいので、まあ、どうでもいい。

「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」と問うけれど、我々は我々でしかなく、ましてや、魂だけが何処かへ浮遊するなんてことはない。今、此処にいて、此処にあるのが我々なのだ。それ以上も以下もない。

横尾氏にとって、読書は、まず「買書」であるという。

読むことよりも、買うという行為を通して、その本のイメージを買うのだ。

本を手に取って装丁を眺めたり、カバーを取り外したり、開いたページの活字に目を落としたり、ときには匂いをかいだり、重量を感じたり、目次とあとがきと巻末の広告ぐらいは読むが、本棚に立てて、他の本との関係性を楽しんだり、その位置を変えてみたりしながら、その本を肉体化することで、本に愛情を傾けていく…本に対するフェティシズムのようだ。

従って、読書家ではないが、本をアート作品のように愛でるのである。

すでに、御年87である横尾氏。身体が動かなくなると同時に、言葉の退化を実感している。ラストの章は遺書にも思える。

「天才とは、自らが天才を演じることによって天才になった人達である」

「偉大な芸術というのは、完全に吐き出し切って、阿頼耶識が空っぽになった者の作品をいう」


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。