「ぼくに死刑と言えるのか」

去年のFBより

FBフレンドでもある北尾トロさんの著書。もう10年前の本だけど、当時、新たに裁判員制度が導入されて、実際に数件の裁判を傍聴してレポする中で、人が人を裁くことの難しさを訴えた感じ。当時の雑誌連載をまとめたものだ。感じというのは、結局のところ、コレも結論ははっきりとしないからだ。

裁判員制度は、確かに、裁判に国民が参加するという建前は良いと思うが、実際には、裁判官の不足と裁判の長期化を慮ってのことで、最後は裁判官が決めるとしても、裁判員に選ばれた市民による多数決によって死刑が決まることもあり得るし、相変わらず、証拠の全面開示も実現してなく、警察・検察の調書が重要視されるし、市民が単に感情だけで有罪を下すかもしれず、片手落ちの感が拭えない。

何より、俺みたく好んで殺人・犯罪の本などを読んでて、ある程度、犯罪者に詳しいならまだしも、全く知らないズブの素人の一般市民には荷が重すぎるんじゃないかと思う。非国民の俺なんか絶対選ばれるわけないけど。

中に、森達也さんとの対談が収載されてる。「死刑で得をする人は誰もいない、これだけは言える」としている。先日、村上春樹氏もオウムの件について、「私は死刑制度に反対ですとは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」と言う。じゃあ、いったいどーなのよ?ってなもんだよね。難しいと思うけど、法と感情は別に考えるべきだろう。

ゴタゴタ言っても、やっぱりどんな理由があっても、どんな人であっても、「殺人はいけないこと」で、それは個人でも国家でも同様と言うこっちゃ!もしくはそれを目標にしろってこっちゃ!以上だ。

もし、俺が死刑の執行を命令する立場だったら…妄想する。現在収監されてる100名以上の死刑確定囚を「日本の未来のために、あえて悪魔になる」とか言って全員の執行を命じ、殺しといて、一旦リセットしてから死刑を廃止するね。でも、長期間、喪に服するのは当然で、はしゃいで宴会なんかに参加しないよ。

あっ、熊本には、誰でも裁判員を疑似体験できる制度があるんだねー。

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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。