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ひとの寂しさ『岡潔対談集』

 岡潔をご存じだろうか、多変数複素関数論の三つの問題を解決した数学者です。ドラマ化もされているのでご存じの方は多いかと思う。

随筆『春宵十話』が有名で、何かといえば「情緒」が口癖のように出てくる、「道元」と「芭蕉」が大好きな人だ、芸術の話しもされる、脳科学の話しも出てくる。時代背景もあるのであろうが、脳科学、仏教、美術の話しの岡潔は僕ははっきり言って好きでは無いが、何故かなんとも好きな文章も多い。
岡潔の随筆は当時、昭和40年頃の日本を憂いている、丁度私が生まれた頃の時代だ。
その「憂い」が令和の時代の今、本当に忘れてしまった欠片を探し出せるような気がして岡潔の随筆に引き込まれているのかもしない。
その岡潔の対談集
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 今、文芸評論家の山本健吉氏との対談「連句芸術」が気になって仕方がない(同じ箇所を何度も何度も読んでいる)。山本健吉氏の著書はまだ読んだ事がない、今まで俳句に興味を持てなかったからだ。

この本を手にしたきっかけは岡潔の対談、対談相手の司馬遼太郎、井上靖、申し訳ない無いが時実利彦、山本健吉は僕にとってはおまけだった。でも、今は山本健吉氏との対談にぞっこんになってしまった。

最近、今のご時世のせいか「人とのつながり」や「侘び寂び」というテーマが頭から離れず、あれやこれや積み上げている本の山の一冊に目が止まりページをめくった、「連句芸術」「この章は読んでないな……」と思い読み始める…

〈前略〉
山本

結局連句の根本というのは、やはり自分一人じゃなくて相手がある。何人かによって一つの世界を作ろうとする。つまり、人間というのは、一人一人別々に生まれてきて、別々に死ぬのですから、孤独な存在ですけれども、そこに何かつながり合おうとする気持ちがある。ところが、芭蕉の発句だけを見て解釈する人は、芭蕉の孤独さということをしきりに強調するんです。

芥川もそこしかわからない。
山本
その裏に、人とつながろうとしている芭蕉の気持ちを読み取っていないわけなんですね。それがだいじなんですよ。それでなければ連句をやった意味がない。

芭蕉の寂しさというのは、自分が寂しいのじゃない。人はみな寂しい。
山本
人の寂しさというものをあたかも自分の寂しさかのように認識する能力です………。

だから、「蜘何と音をなにと鳴く秋の風」(まま)「秋近き心の寄るや四畳半」「この秋は何で年よる雲に鳥」だって、自分がどうしようじゃない。みんなと別れていくだろうなということを予感していたらしいですね。
山本
芭蕉がもったそういう人なつかしさというものを『万葉』の詩人も感じておりますね。

人麿も志賀の宮なんかに寄って、人なつかしさをよんでいますね。
山本
それから、斎藤茂吉さんの『万葉秀歌』には黙殺している詩人ですけれども、高市連黒人( たけちのむらじくろひと )というのがいるんです。この人は十八首くらいの歌しか残っていないんですけれども、みんな旅の歌なんですね。旅先で、たとえばこういう歌がある。「何処にか舟泊すらむ安礼の埼榜廻みいきし棚無し小舟」(いづくにか ふなはてすらむ あれのさき こぎたみいきし たななしをぶね)。

それはよろしいな。
山本
自分と縁もゆかりもない棚なし小舟に行きずりあったのです。それが今夜はどこに舟がかりするか、気になってしかたがない。

その歌はよろしい。
山本
縁もゆかりもない人をそれほど気にしていて、その夜になって詠んでいるわけですね。今夜はどこの港にとまっているだろうなと。ああいう普遍的な連帯感といいますか、やはり人なつかしさの感情だと思います。

寂しがるなら、ひとの寂しさも寂しがらなければほんとうの寂しさにならぬ。

朝日文庫 岡潔対談集P178

寂しいのはあたりまえ、「寂しがるなら、ひとの寂しさも寂しがらなければほんとうの寂しさにならぬ」の一節がガッンと飛び込んできた。

今、目の前に居ない縁もゆかりもない人の寂しさも自分ごとの「おもい」で寂しがる、コレが「さび」ではないか?「侘び寂び」を知りたく色々文章も目にしたが「サビ」の原初の「荒び」(すさび)「遊び」(すさび)も理解できるが「連句芸術」のこの一節が腑に落ちた。

冬の吉野


茶の湯に関して知識があるわけではないが。
ひとの寂しさを思い計り、計りきれない気持ちを詫びるおもいがこの対談を読んでいる自分の中に映像化された気がした………

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