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日本の若者を一言で表現できるか

質的社会調査について学ぶ講義で、先生がおっしゃった。「現代の日本の若者や、若者の置かれた状況を端的に表す言葉はなんだと思いますか?」と。それから先生は、1980年代の若者が「新人類」と、1990年代の若者が「まったり」と表象されたことを例に挙げ、学生たちに意見を求めた。

ちなみに中国では、「内巻」「躺平」「潤学」といった言葉が、現代の若者やかれらを取り巻く社会情勢を表している。詳しくは、以下の記事の3章1節および5章2節を参照されたい。



若者とは誰を指すのか

本記事における「若者」とは、文中に登場する大学院生や筆者、あるいはもう少し年下の大学生に合わせて、1995年から2004年の間に生まれた世代を指したい。ちょうど、「ゆとり世代」と「Z世代」が重なる世代だ。

ちなみに筆者は1997年生まれである。25歳を迎えて「アラサー」の仲間入りを果たした今、「若者」を名乗ることには気恥ずかしさも覚えるが、本記事では「若者」の一員として記述したい。

多様がゆえに一言では表せない

ある学生が、「個人が重視されるようになったので、端的な言葉で表すことはできない」と述べた。価値観が多様化し、「大きな物語」が失われつつある状況では、世代という括りで一般化するのは困難だという。

彼女の発言を聞いて思い浮かべた、象徴的なできごと[1]がある。ちょうど「私たち」のほとんどが小学生だった2009年、小学館は「子どもの多様化」に対応しきれなくなったことを、学年別学習雑誌の発行部数が低迷した要因に挙げ、『小学六年生』『小学五年生』の廃刊を発表した。2017年までには、上記の2誌と同様の理由から、『小学一年生』を除くすべての学年別学習雑誌が廃刊した。

「このことからも推察できるように、多様化した『私たち』は一つに括ることができなくなった世代なのかもしれません」と述べると、先生は「それは厄介だねぇ……」とつぶやいた。


[1]筆者は『小学四年生』から学年別学習雑誌を定期購読しており、『小学五年生』『小学六年生』では「情報部員」を務めていた。『小学六年生』を購読した最後の世代でもある。

「ガクチカ」から考える

「そうは言っても(若者を表す言葉は)本当にないんでしょうかね?」と、先生は学生たちに問いかけた。「世代を表す言葉ではありませんが、流行語の中でも実感が伴った言葉に、『ガクチカ』があります」と私は述べた。

この「ガクチカ」という言葉は、三省堂が選定する「今年の新語2002」において、ベスト10にノミネートされた[2]。「ガクチカ」は「学生時代に力を入れたこと」の略であり、主に就職活動で用いられる。エントリーシートや面接において、ほとんど必ず問われる項目だと言える。

就職活動中の身だからこそ感じるのかもしれないが、「ガクチカ」や、それに付随して求められる「自己分析」によって、若者は、自分が何者であるのか、他者に説明するよう求められているのではないか。これは、現代の若者世代の特徴の一つではないだろうかと意見を述べた。

先生は、「それ自体は、1980年代後半から『自分探しブーム』がありました」とおっしゃった上でこう続けた。「『自分探しブーム』は、どちらかというと若者の自発的な行動でしたが、今のお話を聞くと、自分探しを『させられている』感じがしますよね」と。

たしかに、かつて「自分探しブーム」は存在したのだろうし、発達心理学の分野においても、アイデンティティを確立する前の段階として「モラトリアム」が存在することは広く知られている。

加えて、「ガクチカ」という言葉は10年以上前から存在していた[3]ようである。また、教育社会学者の牧野智和(2012)は、就職活動における「自己分析」という言葉が1950年代には用いられていたことや、「自己分析」の慣行が1990年代から2000年代にかけて定着したことを指摘している。

これらを踏まえると、「自分が何者か他者に説明することを求められている」のは、現代の若者に限った話ではないのかもしれない。


[2]三省堂「三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2022」」https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/shingo/2022/(2023年2月23日最終閲覧).

[3]PR TIMES「今後の辞書に載るかもしれない新語を三省堂が発表!「タイパ」「○○構文」「きまず」などがランクイン!」https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000121.000014647.html(2023月2月23日最終閲覧).

世代に名前をつけるのは誰か

ある学生が「質問よろしいでしょうか」と手を挙げて、次のように続けた。

これまで(若者よりも)上の世代の人たちが、『新人類』とか『まったり』とか表現してきたわけじゃないですか。ということは、僕らの世代ではない人に表現されることで、僕らは『そういう世代なんだ』と認識するんだと思います。そういう言葉って、誰が作ってくれるんでしょうか?

先生は「なるほど」とうなずきながら、「新人類」は経済人類学者の栗本慎一郎が、「まったり」は社会学者の宮台真司がその「名付け親」だと答えた。

続けざまに別の学生が、「先生から見た私たち学生は、どのような特徴がありますか?」と尋ねた。先生は「私も掴めないでいるので逆にききたいなぁと思っていたんだけど……」とおっしゃった上で、「講義によく出席し、成績を気にすること」と「『地元』についてよく語ること」の二つを挙げた。

表象か、ラベリングか

一連のやりとりに耳を傾けながら、私は学部1年次に受けた「社会学入門」での一コマを思い出していた。

講義を担当していた先生は、「ゆとり世代」や「さとり世代」について解説しながらも、「このような教育方針を採用したのも、『ゆとり』とか『さとり』とかレッテルを貼るのも、みなさんよりも上の世代の人たちですからね」とおっしゃっていた。

みなさんが「ゆとり世代」だと揶揄されたときには、私たち「失われた世代」のことを思い出してください。存在すらしなかったことになっているんですから。

ごく個人的な意見を述べるならば、「私」という個人の特性を世代に結びつけるような、安易なラベリングは望まない。世代に限らず、たとえば出身地や家族構成といった、自力では変えようがないけれども自分を取り巻く事実によって、「私」を分類されたくはない。

その一方で、質的調査を学び、実践しはじめた者として、ある期間に生きた人々が共有する「社会」は、やはり存在するとも思うのだ。動的かつ不可視だけれども、個々人と密接に結びついた「時代」や「社会」はあると信じている。

人々が共有する時代は存在するか

『インタビューの社会学:ライフストーリーの聞き方』を著した桜井厚(2002)は、ライフヒストリー法について「個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈する手法」だと記した。これはライフヒストリー法に限らず、社会学の質的調査全般に通じることだろう。そうした手法が成立するためには、個々人が共有する「社会」や「時代」の存在が前提となる。

このことについて、異を唱える学生は少なくなかった。個人の語りを社会的な背景と結びつけることは、多様性のある現代では意味をなさないと考える者もいたし、「時代」は後から振り返ることでしか認識できないので、それらを関連づけて記述するのは難しいと話す者もいた。

先生はこれらの意見を受けて「世代を感じました」とおっしゃった。先生の世代は、人々が広く共有する「時代」の存在を意識してきたが、今の「若者」はそうではないのかもしれない、と。

それでも「私」は、人々が共有する「時代」の存在を信じている。「個人」から「社会」や「時代」を解釈して論じることは、必ずしも個人を何らかの枠組みに固定することではないはずだ。こうした質的調査の手法と、「個人」を他の何者でもない存在として敬意を払うことは、両立できるのではないか。そんなことをぐるぐると考えている。

参考文献

桜井厚(2002)『インタビューの社会学:ライフストーリーの聞き方』せりか書房.

牧野智和(2012)『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探究』勁草書房.

宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ:オウム完全克服マニュアル』筑摩書房.

withnews「「自分探し」平成で定着 「解放」の尾崎豊から「探求」のミスチルへ」https://withnews.jp/article/f0190325001qq000000000000000W06910801qq000018851A(2023年2月23日最終閲覧).

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