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「目的を達成したい」は内発的動機づけなのか? 『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(1)

最近よく聞く言葉は「君は何がやりたいんだい?」ということだったり、「どんなことを達成したいんだい?」という質問だ。

その中でも自分から一度「絵を描きたい」と子どもが言い出せば、絵画教室に通わせ、「医者になりたい」と子どもが言い出せば、医者なるためには、あの名門中学校に行く必要があるから、という理由で受験塾に通わせる。

子どもが自分から発言した「目的を達成したい」は内発的動機づけと言えるのだろうか?

まず、内発的動機づけとは真反対の概念である、「外発的動機づけ」から考えてみる。外発的動機づけで最も有名な実験は「パブロフの犬」である。

「ベルを鳴らす」その後にすぐに「餌をやる」

この学習を何度も繰り返すと、犬は「ベルが鳴る」ことに反応して「よだれを出す」、つまり「餌をもらえる」という報酬への期待をするのだ。

行動主義心理学では、「行動」と「報酬」の結びつきを強化する原則(行動の随伴性という)を用いて、人の学習にも適応して研究を進めた。例えば、テストでいい点数を取れば報酬として美味しいおやつをあげたり、大げさに褒めたりといった具合だ。これは行動主義哲学者のバリー・シュワルツが指摘する、下のような人間観に基づいている。

すなわち、人は基本的に受動的な存在であり、報酬を獲得するか罰を回避する機会を提供する環境からの誘いがあるときにだけ、人は反応を起こすというわけである。

しかし、子どもたちを見ていると、「好奇心や意欲」は成長ととともに下がってしまうことが多い。それが何故かを考え始めたのが、『人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ』の著者であるエドワード・デシ教授である。

彼の考えはこうだ。

行動主義では、そもそも学ぼうとする意欲などは存在しないと考えている。しかし、この前提は、幼稚園や家で幼児が示す姿 ー出会うものを絶え間なく探求し、いじくり回しているー にまず反している。彼らが有能さを求めてチャレンジを繰り返すのは、そうするのがただ楽しいからであるのは明らかである。子どもたちは、報酬の提供によって学習に動機づけられるのをただ受動的に待っているのではなく、むしろ学習の過程に積極的に関与している。まさに、彼らは学習に対して内発的に動機づけられているのである。

著者のデシ教授はある実験によって「内発的動機づけ」の本質に気づいた。どのような実験かというと、2つのグループに被験者を分け、あるパズルの練習に対する報酬をもらった人ともらわなかった人で、その後の自由な時間で、練習したパズルで遊ぶかどうかを比較した。

デシ教授は「内発的動機づけ」は「外発的動機づけ」によって強化されると仮説を立てたのだが、結果は全くの反対だった。「報酬あり」の群は練習したパズルを自由な時間で全く触らなかったのだ。これは行動経済学で「アンダーマイニング効果」として知られている。ユダヤの寓話にも同様の内容があるようだ。

ここから、デシ教授は下の考えを導くに至った。

内発的動機づけとは、活動それ自体に完全に没頭している心理的な状態であって、(金を稼ぐとか絵を完成させるというような)何かの目的に到達することとは無関係なのである。

内発的な動機づけとは、子どもが自律的に動いていること、すなわち大人からの力(報酬も含む)や脅しによる統制によって「服従させられる状態」でもなく、偽りのない自分でいることができる状態にあることである。

では、はじめの問題に立ち返ってみよう。

子どもが自分から発言した「目的を達成したい」は内発的動機づけと言えるのだろうか?

まず、前提として、大人側からは「目的を達成したい」と聞こえたかもしれないが、内発的動機づけを持つ人はそういった意図で言っていない可能性が高い。

「絵を描きたい」という発言は「絵を描く行為そのものが目的」であって、「美しい絵を描き上げることを目的」としているわけではない。この微妙なニュアンスに気をつけなければいけない。もし、型にはまったことを教える絵画教室に通わせてしまったなら、「美しい絵を描く」ことが目的にすり替わってしまい、たちまち子どもの意欲は失われてしまう。

「医者になりたい」は自分が人体について詳しくありたい、学びたいということが目的なのだろう。それは、将来多くのお金を稼ぐでも、医者として名誉ある仕事をしたいということでもない。もしそのように言っているのなら、大人の目を伺って、大人の期待に子どもが合わせていないか注意する必要がある。

世の中、特にビジネス界では「自己実現」「他者からの承認欲求」「目標達成」などの言葉が流行り、自己啓発・自己実現の時代とも言える。だが、内発的動機づけを持つ人は、純粋にいじくり回したり、遊んだり、学んだりすること、その行為そのものを楽しんでいるだけなのだ。

手段が目的化して何が悪いのだろうか。


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