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自然は神がデザインしたアート

まず初めに、僕は美大を卒業したわけでもなければ、デザイン系の職についているわけではありません。

要は芸術に関してはど素人の中のど素人です。

そんなど素人が考えたデザインとアートと自然について書くので、専門の方で不快に思われるようであれば、読まないでいただきたいと思います。

僕は自然を見て、本当に心から美しいなぁってよく思うことがあります。

多分、「美」という概念は自然から生まれたのだと思っています。

なぜ、自然を見て美しいと思うのだろうか、と考えたことがきっかけで、デザインやアートについて考えるようになりました。

まず、デザインとは。

僕が考えるデザインとは「最適解」です。つまり、「答え」

言い換えると、機能美やユーザーインターフェースの使い心地や使い勝手の良さ、を内包しているものをデザインと呼ぶのだと考えています。

デザインが洗練されていけばいくほどシンプルに向かうのは、機能美に「無駄」はあってはいけないから、どんどん削ぎ落とす。

そうして削ぎ落とされて、これ以上削ぎ落とす部分がもうないもの、それが究極のデザインであり、最適解に到達したという状態なのだと思います。

ただ、その削ぎ落とす過程の中で、核というか魂というか、そういった部分まで削ぎ落としている。

だから、洗練されたデザインというのは一見、無機質に見え、温かみが消えるのかな、なんて思います。

じゃあ、次にアートとはなんなんだろうか。

僕が考えるアートとは「主張」とか「問いかけ」なのかなと思っています。

決してそこに答えはない。

なぜなら、絶対に100%の人々が「このアートは素晴らしい」って感動するアートってこの世にないですよね。

なぜなら、アートに求められるのは心に触れる何かをそこに宿しているかどうかで、機能美や使い勝手ではないから。

使い勝手であれば、100人が使って100人が「これは使い勝手が抜群だ」ということはありえる。

ただ、アートにそういったことは求められていない。

心に触れる何か。

心は人それぞれ違うから、この作品に何かを感じる人もいれば感じない人もいる。

それでいいのだと思う。

大勢の人がこれはダメだと言っても、自分の心に何か感動が生まれるなら、それは自分にとってアートなのだと思う。

そういう意味で、答えはない。ただの問いかけであり、作り手の主張なのだと思う。

だからアートは「無駄」や「余白」だって内包している。

そういった「無駄」や「余白」をアートの一部にして、無駄や余白ではなくしている。(説明が難しい)

そう考えると、アートは削ぎ落とす作業ではなく、むしろ加える作業。

そしてアートが絶対に削ぎ落としてはいけないのが核や魂になる部分。

ここを削ぎ落としてしまうと、温かみや成長性、そういったものをアートから剥ぎ取ってしまい、見る者の心に触れる何かを生まなくなる。

見る者の心はアートが内包している核や魂に触れて初めて感動を起こすのだから。

なんとなく僕はデザインとアートに関してこんな風に考えている。

そこで、テーマにも書いた「自然」についてだ。

自然がなぜこうも美しいと思うのか、感じるのか。

それは自然が究極のデザインでありながら、アートを内包しているからだと僕は思う。

当然、自然は神がデザインしたのだから、究極美でないはずがない。

洗練されたデザインの極みなはずがない。

太陽を受ける花びらはお互いがかぶらないように無駄なく咲くようになっているし、きちんと太陽の方を向くようにデザインされている。

そのサイズや見た目、繁殖、その全てにおいて「無駄」な部分がない。

デザインの極みである。

しかし、その一方で自然を目にして無機質に感じるだろうか?感じない。

温かみや偉大さ、尊厳さ、神々しさ、美しさ、成長性、魂などを感じ取れる。

自然は核を有し、魂を内包している。決してその大事な部分を削ぎ落としていない。

だから、自然は心にも触れて、美しいと感動する。

自然は「神がデザインしたアート」だから、極みまで洗練され、なおかつ魂を宿している、究極の芸術なのだと思う。

自然の偉大さはそこにあるのだと、僕は思う。





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