親ガチャ論争と決定論と自由意志について〜人生そのものがガチャなのか〜

貴方が生まれた瞬間の全ての因果を登録できるシュミレーション装置があったとして貴方の人生を1000万回繰り返したとすると何回今の人生と似たようなものになるでしょうか。

親ガチャと聞いて否定するものがいるが実際に親の人生に対する影響は計り知れない。遺伝によって肉体的なものは大きく引き継がれ、性格の土台となる脳も遺伝する。依存性やサイコパス性、障害など社会的にタブー視されているが明らかに遺伝しているものもある。血縁は切っても切れないもので、さらには子供の家庭環境なども親が司っているため親の元を離れ自立する18歳頃以前までは人生は大きく親に左右されるのは当然である。

 私たちが親ガチャと人生を嘆くのは、自身の苦しみの責任を親に擦り付けているためで、誰しもがするものだ。酒に溺れたとき、受験で失敗したとき、離婚したとき、人間は苦しみにあるとき自己防衛機能が働く。自身の苦しみは肉体的なものが要因でその遺伝元である親に責任があり、さらにはそもそも親が私を産んだから私の苦しみがあるのだと妊娠を非難する。そして悲しいことに現代では大まかな遺伝率が科学的に明らかになったり統計的なデータが簡単に目にでき、SNSで他人と比較したりするのが容易であるため責任転嫁するなというのも無理な話だ。

 だが自己責任論にも説得力がある。結局のところ私たちは環境に文句を言うのではなく、工夫をしてアカデミックに自由意志を信奉して行動するのが最適解かもしれない。乾燥地帯で雨乞いをするより雨の振りやすい地域に移動して農作をする方が効率的である。これこそが近代化であり産業革命以降の急激な人類の発展を支えたイデオロギーなのかもしれない。人類は宗教によって統治され人生の不条理を神への信仰によって乗り越えてきた。それは妄想であったが無知な生物には救いになった。その後、科学によって妄想世界を現実世界に置き換えることができるという認知革命が起こった。雷様を、ゼウスをマイティーソーをベンジャミンフランクリンが殺害したのだ。神へ祈る暇があったら勉強をして科学を推し進める方が合理的であると考えた人類は、信仰を失い傲慢さを手にしたのだった。

 教育制度が整い、現在の資本主義経済が確立すると私たちは怒涛の勢いでテクノロジーを発展させた。資本主義こそ自由意志を軸に作られたものだ。私たちはたまたま生まれが良かっただけでのさばっていた王族貴族共を殺して民主主義を作った。やつらは努力しないで人より裕福な暮らしをしている。私たちは人権を持つ平等な存在だが、悲しいことに富を平等にすることは出来なかった。富を平等にすると働かなくなるし、競争してお金を稼いでる他の国より経済的に劣る、そうなったら戦争でも敗戦国になってたくさんの人が殺されてしまう。しかも人の能力には差異があるため、なぜあんな出来の悪いやつと同じ富なのだという考えがでるのも当たり前だった。よりよい商品を作り、より科学を発展させお金を稼ぐこと、頭がいいことが正義となった。そのため教育によって良い大学に行き良い企業に入る、それ以外にも様々な分野で実力によってお金を稼ぐことが理想である。それには努力が不可欠であり、責任の所在はその人にある。なにより努力すれば救われるというのは人間の希望になった。

 しかし現在人類は賢くなりすぎた。科学は自由意志を否定し、私たちは解像度の高い現実を見ることが出来る。科学は絶対的なもので有無を言わせない力があり、この世界の偶然性を確固として見せつける。人間の行動も遺伝によって決定づけられており全てが偶然生じているものでしかなく、人の営みも自然現象と同じであるのだ。私たちが自由意志と感じているものも遺伝によって組み立てられた脳のモジュール同士の結合を俯瞰的に見ているものでしなく人間の行動に功罪があるのかは不明である。人生は全てが偶然起きるもので親のせいではなく、そもそも親にも自由意志はないので責任の所在は神にあるのだ。

 ーーーというのが最近まで私の考えでした。決定論と自由意志という人類がずっと考えてるテーマにおいて私はかなり決定論者の側に立っています。私は心理学のビッグ5理論でいうと誠実性が低いのでこういう考えになるのでしょう。脳の誠実性を司る部位が要因で誠実性が低いのかそれともそういう考えだから誠実性が低くなるのかよく分かりませんが私は自由意志を疑ってます。現代だと親ガチャとかそういう考えが流行っていますが私から言えば全部偶然ですので人生はガチャであって魂がどの人生に宿るかという人生ガチャのが合っていると思います。多分自由意志を信じる人は年々減っててLGBTが人権を手に入れたのもそういう影響なのかなって考えてます。昔はいろんな宗教で同性愛者には悪魔がついてるだの言われてましたが、科学が発展して脳とか遺伝子のせいだと分かってコイツらのせいじゃなくね?コイツら悪くなくね?ってそうなったんだと思います。現代的な多様性ってのも同じで、個人の責任が神へと回帰しているのではないかと。後々遅刻癖も脳の性質のせいだってなって社会的にある程度免罪されるようになるかもしれませんね。
 
 今回メインに伝えたいのは決定論って考え方はいいのかってことです。メリットは自己肯定感が上がったり差別意識が無くなるということです。人々が他人に対して嫉妬や劣等感、差別意識を抱くのは自由意志を信じ、他者に責任を感じるからです。それがないので例えば私がブスなのは神のせいだから普通にメイクすればいいだけか、私に恋人いないのはそもそも脳の構造的に恋愛に興味が無いからだ。なんて自己否定がなくなって何も解決しない負のループに入ることがなく逆に究極的に論理的な思考、解決ができます。人に差別するのもその人の劣った点が自分には理解できずその人の責任だと考えるからです。全てが偶然だとすると人をバカにすることもなくなります。良くも悪くもフラットに人を見ることができ、英雄も極悪犯罪者も同じ外れ値としては同質的なものに思えます。
デメリットは不真面目になること、共感性が喪失することです。倫理観や責任感が欠如するので、自己規律も弱くなりますし努力もあまりしなくなりますし人間的ではない考え方です。物理法則以外は存在せず人を殺していけないルールはこの世界にありません。私はもしかすると親が殺人鬼に殺されたとしても偶然起きた現象だと、殺人鬼に一切の憎しみを抱かないかもしれません。それはやはり感情の欠如であり、自身に対する共感性の喪失なのです。やっぱり、ある程度自由意志を信じたいですね。私にはかなり難しいのですが。

私がそう考えていると朗報が舞い込んできました。自由意志を肯定する論文も多く出ていることを知ったのです。それは人間の意識は脳の決定を客観的に見ている傍観者ではなく、自己の最高責任者であると証明するもので、科学的で信じれるものです。私はそのような記事や論文を読んでボロボロ泣いてしまいました。ヒューマニズムを感じれたからです。

皆さんは人生は確率で決まると思いますか?自由意志を信じて論理に立ち向かうことが出来る人でしょうか、私は人生はガチャであると考えていますが、一方で自身の選択でより良い世界になると考える自分もいます。そのより良い人生にしようと行動することも、確率で決まっていて偶然生じていることかもしれませんがそれでも両立主義者でありたいです。私たちは脳の管理人で、自分で自分を律することが出来る責任所有存在なんだ、そう思うことが理性と感情のバランス感覚、さらにはヒューマニズムを維持するベストな思考なのかもしれません。

 

 

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