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YS 2.6 それは本当の自分か

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。苦痛を発生させる原因のおおもとは、無知だよという話から、今回は2つめのエゴイズムについてです。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.5 それはヘビかロープか」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章6節

दृग्दर्शनशक्त्योरेकात्मतेवास्मिता॥६॥
dr̥g-darśana-śaktyor-ekātmata-iva-asmitā ॥6॥

我想[アスミター]とは、いわば、見る者【プルシャ】の力と見る器官【身心】の力との同一視である。(2)

さて、2つめ苦しみの種(クレーシャ)は、I-feeling、エゴイズム、我想とそれぞれ別の訳がついていますが、ここではエゴイズムとします。

エゴイズムというのはよく聞きますが、その定義を調べるところから始めたいと思います。大辞林【第二版】(参考によると『①自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義。②哲学で、自我だけが確実に存在し、他は一切認識不能であるとする説。唯我論。独我論』とあります。なるほど。

では、ヨガ・スートラは何と言っているか。


ヨガのいうエゴイズム

フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、身体や、物事を認識する心(ブッディ)、感覚器官を媒体として受け取った印象を自分だと主張することが、エゴイズム、または、サンスクリット語でいうアスミターだといいます。

たとえば、仕事がはかどらなくて自分は仕事ができないなと思ってしまう、いっぱい褒められて今日のわたしは特別いいんだなと思う、そういうのがアスミター。自分の奥底に在る本来の自分ではなく、外からの情報を受け取り、それが本来の自分だと認識することは間違いだといいます。

なぜこれが苦しみの種なのかというと、本来の自分ではないのに本来の自分だと思うことで、ないものを求め続けることになるわけです。本当はないのに。

ネガティブな自分のイメージを植え付けてしまうから、苦しみの種になるわけです。特別いいんだなと思うのはポジティブだけれど、本来の自分ではないのに自分だと思うことで、ないものを求め続けることになるわけです。褒められてなくても在るだけでもう満たされている存在だからということ。

ここでもう一度、最初に調べたエゴイズムの意味を思い出したい。『自分の利益を中心に考えて』しまうのって、自分の感情や思いに振り回されていて視界が狭くなっている時だと思いませんか。本来の自分ではないものを自分だと思って追いかけるから、たどり着いて一息つくなんてことが、起こらないわけです。


とはいえですよ

それは確かにつらいわ。うん。分かる。分かるけれど、実際にどれだけ実行に移せるかというと、すごい落ち込んでいるときとか、すごい喜びの興奮にあるときとか、いやあ難しいなあと思う。

そもそも「本来の自分」を考えてみると、いい人であってほしいし、幸せであってほしいと思ってしまうから、そこですでに心が働いて認識してイメージを作ってしまうわけです。自分で気付くぐらいだから、無意識の領域も含めたらまあなかなかでしょうね。

でもまあ、やってみないことにはね。と思います。


その時に思い出したいのがプルシャとプラクリティの話。「スートラ1.16 そして真の自分に会う」で出てきた話です。

悲しんだりする心や感情の揺れの中にあっても変わらずにいつでもそこにあるのが〈見るもの〉であるプルシャです。そして、プルシャが見ている世界が〈見られるもの〉であるプラクリティ。本来の自分がプルシャで、外側の世界に定義された自分はプラクリティ側にいるわけです。

〈見るもの〉プルシャがもつ外側全部を見る力と、〈見られるもの〉プルシャが外側の世界の中で見る媒体としてもつ力を、混同してしまうというのは、そこのことだ。そして、そりゃあ混同するよね、確信をもって理解できることでは、少なくとも今のわたしにとっては、ないですもん。皆さま、どうでしょうか。


フォーチャプターズが、面白い例えを紹介していました。わたしたちは「バスが来た」というけど、そのバスは自動的に来ているわけではなくて、運転しているドライバーが動かしているからバスが来るわけです。その運転手がプルシャ。

ハリーシャ(参考3)は、その心の動きは全て溶けて消えてしまうけれど〈あなた〉は残るんだといいます。目を閉じて、手探りで感触を探しながら想像してみるのもいいかもしれない。

インテグラル・ヨーガ「パタンジャリのヨーガ・スートラ](参考2)は、本来の自分は大文字の「I」で、自分だと思っているのが小文字の「i」で、その小文字の上の点を外したいってそれだけなんだよと解説しています。

手を変え品を変え、だからそれほんとそうじゃないんだよと、伝えようという意思が続いてきたことを、そしてその道の下流にヨガをするわたしがいることは、覚えておきたいですよね。とはいえさ~と思うたびに、少し俯瞰してみるためのフックになる。


それでどうすんのよという話

とはいえ、いやでも、、と心が行ったり来たりする。それを落ち着かせるのには、瞑想だよと、ハリーシャとフォーチャプターズは口をそろえて言います。だから、先に瞑想のステップとサマーディの話を先に第1章でしたんだよと。

さあ始めるよ」という第1章1節から、なるほど!、わわわからん、などを経て第1章ラストの51章まで、わりとみっちりやってきました。それを経て、本来の自分つまりプルシャの話ができるのはとても良かったはずだなと思う。そうでないと、先ほども書いたけど「本当の自分」トラップに引っかかりやすくなってしまっただろうなと思います。よくできてる。


自分らしさは大事だと思うし、苦痛の種だから全部捨ててしまえよというほど過激派でもありませんが、心が掴まれたときには、ひと息ついて辺りを見渡せるようではありたいなと思います。だってわたしは、そもそもプルシャを知らない。

わたしはBORN TO YOGのティーチャートレーニングも卒業しているのですが、BORN TO YOGを主宰している佐藤ベジがそのトレーニングでわりと言い続けていたのが、奇をてらうなということでした。自分らしさなんてどうせにじみ出ちゃうんだから、匂わせたりすんなと。

まだまだ、心は行ったり来たりするだろうし、脳もストップをかけるんだろうなと思うけれど、まあやってみますよパタンジャリさん。そして3冊の解説を書いた先を行く人たち。ヨーガ・スートラはまだまだ1/3も終わっていないので、どう変わっていくか楽しみにしてみませんか。

週1で更新しているので、まああと3年かかる計算ですが。笑。


では、次回は苦しみの種(クレーシャ)の3つめ、執着について。相変わらず、内容を想像して苦笑いしてしまうトピックですが、来週もここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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