見出し画像

YS 2.7 それはまだ喜びのままか

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。苦痛を発生させる原因のおおもとは、無知だよという話から、エゴイズムときて、今回は3つめの執着です。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.6 それは本当の自分か」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章7節

सुखानुशयी रागः॥७॥
sukha-anuśayī rāgaḥ ॥7॥

執着とは、快楽体験との同一視から来るものである (2)

執着の意味を辞書で引くと、『一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。』とあります。仏教用語として解説している記事もいっぱいあって、なるほどなと思いました。

さて、ヨガは。


執着とは

インテグラル・ヨーガ「パタンジャリのヨーガ・スートラ](参考2)は、執着(ラーガ)を『われわれは、幸福は真の自己として中に在ることを忘れる。外界のものから喜びを与えようとするとき、われわれは執着した状態となる。』と書いています。

どうして忘れてしまうんだろうと思うけど、そもそもその前に、そのことが本当なのかを知らないわけです。ヨガのいう〈真の自己〉というのが何者かも分からなくて、トライ&エラーをしたり、ちょっと休憩したりしているわけです。そう考えると、今までの2つの苦しみの種を思い出しませんか、無知エゴイズムです。

喜んでいるのが〈真の自分〉ではないのに、自分が喜んでいると勘違いしてしまう(だから執着してしまう)ことがアスミター、または、ヨガでいうところのエゴイズムでした。そして、本当は苦であることを知らずに楽だと勘違いをしてしまうのが無知(の1つ)でした。この2つがあるから執着が成立する、という構図が見えてきます。

根っこから引っこ抜くには、コツもパワーも必要だけれど、葉っぱであればなんとかできるかもしれないと思いませんか。苦痛の種(クレーシャ)の中でも表層に近いこの執着、なんとか決着をつけられそうでしょうか。


喜びは悪いことなのか

フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1)は、今回の執着を、次回の嫌悪と一緒に解説しています。それは、何かを好きということは、嫌いな何かが自ずと発生してしまうから、嫌いの反対は好きではなく、同じサイドにある感情だからだということです。好きの反対は、嫌いではなくて無関心だといいますが、まさに好きも嫌いも心を動かす。そして、それは苦しみにつながることがある。

とは言っても、〈真の自己〉を知らないから、目の見える範囲、手の届く距離に喜ぶ何かがあったら、それはつかみたい。好きなものに周りに集めたら、幸せな気持ちになる。そう思うところから、喜びを得ることは悪いことなのかという議論になりがちで、そんなの嫌だなあと考えることをやめてしまいたくなります。

先にほんとに〈真の喜び〉が待っているかも分からないで、目の前の喜びを手放すなんて、そんな修行僧みたいな生活したくない、と後ずさりしたくなるよなと思います。そこから派生する拒否感が、サマーディの話を避けることにつながるのも、まあ分かる。(そもそもの信用しづらい人から教わりたくないよね、という話は抜きにしても)


手放しで受け取れるならどうだろう

古代のヨガの流派は、執着を生むからなるべく喜びを避けなさいと教えていたそうですが、タントラヨガは違ったようだと教えてくれるのはハリーシャ(参考3)です。タントラヨガは、その性的な側面が注目されがちですが、昔の男ばかりが世間から離れてヨガをしていた時代に、仕事をもったり、家族を持ったりと、社会と交わりながらでもヨガができる道を作ったヨガの一派だと、わたしは理解しています。

そのタントラヨガは、先を目指す歩みは確かに遅くなるかもしれないけれど、喜びの感覚を全てしっかりと受け取り、それを優しく手放すことができたなら、それはとてもいい練習になるということだそうです。だから、喜びは、取ろうと手を伸ばしたり、つかもうとせずに、両手を広げたまま十分に味わえばいいんだと、ハリーシャは続けていました。

喜びが、喜びであるうちに、喜ぶということだ。


手放しで受け取ったこと、あるかなあ。ない気がするなあ。つかもうと思ったら、もう手元になかったり、または、わたしがそこにいなかったということなら、あるかなあ。いいな、やってみようと思うし、そう思ったのはわたしだけではないはず。いや、本当に素晴らしい解説って、やろうと思う気持ちを起こしてくれるんだなとつくづく思います。


もうひとつ、わたしが、やってみてもいいと思う理由。それはやっぱり身体の具合に出るからなと思うからです。先に書いたように、表層に近いところにある苦痛の種だから、見つけやすいし自覚しやすいはずなんです。

わたしは緊張して肩をガチガチに緊張させて生きてきたんだなと、とヨガを始めて気付きました。そこから柔軟性が戻ってきたのを経験してきたし、練習メニューはだいたい同じアーサナをするので、毎日の違いが分かりやすい環境にあります。だからほんとに、やっぱりいいことあった日って、身体が良く動くんですよね。

身体が良く動くときって、呼吸との連携もすごくいいし、そもそも呼吸が穏やかで深い。これをなんとなく知っていると、普段の生活で短くなったり早くなったりと乱れるのに、なんとなく気付きます。そしてそういう日の練習の始めって身体が思うように動かなくなるから、あんまりよくはないんだろうなと思う。だから、まあやめてもいいんだろうなと思います。


何かをつかみ続けていると、やっぱりギュッと力入ります。しかも、逃がしたくないと思ったら、より力が入ってしまう。それを気持ちだけでなく、何となくでもフィジカルに感じる機会があったのは、このヨガが教えてくれることの説得力を感じる経験でした。

だからこそ、ハリーシャの両手を広げたまま受け取るというのは、本当に秀逸。イメージしやすい。できるかどうかは、やり続ければなんとかなるはずなので、まずはやり続けるぞと、決める。また改めて決めたぞ、わたしは。そして、仲間がいますようにと、書きながら思っています。


今回のスートラを終わりにする前に!ハリーシャのヨーガ・スートラ講座は、解説がとにかく腑に落ちたし、自分にこんなに引き寄せたものとして読むことが出来るのかと思う、本当に素晴らしい講座なので、英語に苦手感がない方は、ぜひ。


では、次回は苦しみの種(クレーシャ)の4つめ、憎悪について。どんどんあからさまに苦しかろうというトピックになってきましたが、来週も元気にここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから




励みになります。ありがとうございますー!