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YS 2.15 そうだとしても絶望じゃない

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。カルマのはなし、まだまだ続きます。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.14 自分が組み込まれているとしてみる」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章15節

परिणामतापसंस्कारदुःखैर्गुणवृत्तिविरोधाच्च दुःखमेव सर्वं विवेकिनः॥१५॥
pariṇāma tāpa saṁskāra duḥkhaiḥ guṇa-vr̥tti-virodhācca duḥkham-eva sarvaṁ vivekinaḥ ॥15॥

For a discerning person, all is suffering, because of the suffering caused by consequence, by pain, and by the samskara-cycle, and that caused by conflicts in the activities of gunas.(3)
識別する者にとって、行動に伴う結果から、痛みから、残された記憶や印象から発生する欲望から、または3つのグナの活動によって引き起こされる衝突から発生する苦しみがある。だから、すべては苦である。

識別のあるものにとって、あらゆるものが苦である、と読んで、何をおもいますか。落胆か、反発か、だよねとうなずくか。その心の動きを眺めつつ、詳細をみていきましょう。


すべては苦であるということ

人生のあらゆることが苦であるということについて、全ての行動が変化を起こすからという前提があります。そして、その変化から発生する心の動きがある。

たとえば、行動を起こしたことで、望んでいたものを手にするという嬉しい変化が起こる。そこから、それを失うことを恐れる不安な気持ちをうみませんかということ。もしくは、もっとほしいと切望する執着をうむ。ハリーシャは、そもそも実際手にしてみても想像をこえることってなかなかないよねとシニカルなことを言っていましたが、そういうこともある。そうやって苦しみの連鎖が発生する。

苦しみが発生すると、その苦しみのない世界を望んだり、なんでこんな苦しみがわたしに起こるんだろうと自分を被害者に見立てたり、こんなのフェアじゃないと世界を恨めしくおもう。連鎖はいくらでも加速できてしまう。


書いていて鬱々としてきますが、それはこの心の動きを経験しているからで、あれは独りよがりだったんだなと思って頭を抱えたくなります。濃淡はあれど、思い当たる経験はありませんか。

この一連の心の動きは、この世界を構成する要素(3つのグナ)と、私たちの思考の傾向に、いつも衝突があるから痛みが引き起こされるせいだよと、フォーチャプターズ(参考1。以下、フォーチャプターズ)は書いています。だから、嬉しかったり喜びに見える出来事も、その底には苦しみがあるというわけです。


識別があるからということ

識別があるというのは、表面や印象ではなく、物事をそのまま知覚することができるということ。だから、喜びの底に苦しみがあることがわかるというのが、今回のスートラです。

ヨガを学んで練習して、それによって知ることが「この世のすべては苦」だというのは、なんだかあんまりだなと思います。世の中が悪いものだらけなように感じてしまう。


そうではないよと書いているのはインテグラル・ヨーガで、『本当はこの世に”悪いもの”など何もないのである。だが三つのグナがいつまでたってもわれわれの心を弄び続ける。』ということが原因であるといいます。

すでに少し前述しましたが、このインテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ。以下、インテグラル・ヨーガ)(参考2)の文脈を借りるなら、わたしたちが何を望もうと、この世界を構成する3つの要素であるグナとは誤差がある、ということ。

(グナについては「YS 1.16 そして真の自分に会う」でもう少し説明しています)


そして『真の愉楽とは、世界のすべてから完全に自分自身を引き離すことから来る、つまり超えていることの内にある。つまり、それ(世界)の修得者としてそれを利用することから来るのだ。われわれが誇ることのできるものはそこにしかない。』ということです。

何を私たちが望もうと、グナがそれに寄り添ってくれるわけではないです。でも、そのグナが作りだす世界を〈見るもの〉がいる。そして、それは〈わたし〉です。


だから、全て苦だから社会から離れて生きようとかそういうことではない。世俗から離れることは、助けてくれるかもしれないけど、根本的な解決ではない。離れるべきは、「苦」。もしくは、『われわれはどこにいても物事を適切に扱っていけるようにならねばならない。』というところを目指していく。その識別と共に、さらに勉強と実践を深めていく。


ハリーシャ(参考3)曰く、そもそも誰も傷つけずに起こる幸せはあるか。どう思いますか。誰かを傷つけたなら、それが連れてくる結果があるし、いいことがあったらその対価を払わなければいけない、とも述べています。

深掘りは、どうぞいま準備ができているぶんだけ。

でもだから、すべてが苦であると知ることはいいことだといいます。そして、そこから逃れるにはどうするばいいのかということを、これからさらに学んでいくわけです。


反発したわたし

全てが苦であると初めて聞いたのは、ヨガより仏教の教えとして知ったときですが、わたしのリアクションは反発でした。そんなこと言わないでよいいことだってあるでしょと思いました。

それがいつだったか覚えていないですが、そこからヨガを始め、ヨーガ・スートラを学びながら自分の今までを振り返り、いまは、まあそうかもしれないなと思います。

反発した時に感じた人生に対するがっかり感はもうなくて、それが本当でも本当でなくても、わたしはわたしと生きるこの人生をとにかく進めていくんだなという気持ちです。


ハリーシャが言っていた「YS 2.7 それはまだ喜びのままか
」で言っていた、嬉しいこと、幸せなことは、逃げないようにつかんでしまうのではなく、両手を広げて受け取って、それが去っていく時も両手を広げて見送ればいいんだよということ。

今回のインテグラル・ヨーガも、来たら来たでいいし、それが離れるときは離れていくのを楽しもうと書いています。『それらが来るときはひとりで来たのだ。だから今度も一人で行かせよう』というのは、なるほどなと思います。決めてあるくのは、じぶんだ。暫定的かどうかに邪魔されてるひまは、ないよなあと思うのですが、どうでしょうか。

さて、いくならいこうぞ。


次はもうちょっと気楽に聞くことが出来るカルマの話です(ほっ)。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから




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