YS3.3 サマーディ:自分は自分の心ではない
さて、引き続きヨーガ・スートラを有名たらしめる八支則の説明が続きます。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、マプラティヤーハーラ、ダーラナー、ディアーナ。今回が最後の最後のゴールです。この長旅の終着点は、予想通りか、はたまたそうでないか。
※前回は、こちらの「YS 3.2 ディアーナ:ただ起こる」からどうぞ。
ヨーガ・スートラ第3章3節
तदेवार्थमात्रनिर्भासं स्वरूपशून्यमिव समाधिः॥३॥
tadeva-artha-mātra-nirbhāsaṁ svarūpa-śūnyam-iva-samādhiḥ ॥3॥
三味(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。(2)
ハリーシャ(参考3)は、サマーディが起きるためにできることはないと、また、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は「これについてはあまり多くを語ることはできない」と、それぞれの解説の第一声として書いています。それでも言葉にして解説してくれるあれこれを、読んでいきましょう。
対象のみが輝く
フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、サマーディは2つの性質をもっている。ひとつは、集中または瞑想の対象のみが光輝くこと、ふたつめは、この段階ではプロセスや自己に対する意識はないということだといいます。
ひとつめの、集中の対象のみが輝くということ。フォーチャプターズは、瞑想のステージが深まるにつれ、瞑想の対象は、よりクリアに、より色鮮やかになると書いています。ではなぜ、集中または瞑想の対象のみが輝くのか。
それは、ふたつめのプロセスや自己に対する意識はないということで説明ができるのではと思っています。
心が空になるから
フォーチャプターズは、サマーディでは、集中の対象とひとつになるから、自分が集中力を発揮しているという意識はないといいます。深い集中の状態では、対象が消えると言われることがあるが、ヨーガ・スートラは対象は消えず、むしろ対象だけが残るとあります。
ダーラナー(集中)で途切れ途切れだった集中が、ディアーナで途切れる回数が減り、voidという単語を使っていますが、突然〈空の状態〉になる。それは心や意識が消滅したのではなく、自分自身や集中の過程を意識していないので、一時的に存在していないかのように感じるのだそう。これが、サマーディの最初の段階だといいます。
インテグラル・ヨーガは、サマーディにいることを「知る”あなた”はそこにいない―なぜならあなたがそれなのだから」と書いています。瞑想には、瞑想者と、瞑想と、瞑想される対象という三つの要素があるが、サマーディの状態では、対象か瞑想者かの、どちらかしかない。
分かるようで分からない、と思いませんか。それをすっきり解説してくれるのがハリーシャです。ハリーシャは、その対象と溶け込むのは〈わたし〉ではなく〈わたしの心〉だといいます。ここが重要なポイント。上記、フォーチャプターズやインテグラル・ヨーガの解説の、”自分”を”心”に読みかえると、おさまりがとてもいい。
サマーディでは瞑想の対象と一つになると理解されていることは多いけれど、このパタンジャリのシステムでは心は対象に溶け込むのだと理解しておくことは、とても重要だとハリーシャは言います。
なぜか。それによって、心と本質の自分である純粋な意識との違いを知ることができるから。
心が対象に溶け込むから、心はその本質である空になる。だから、そこで輝くのは対象のみになるという理論は、なるほどなと思うところです。そして、サマーディが起こっても、いまサマーディにいると感じることもなければ、対象に対して感じることもないから、だからそもそも対象がなんだっていいというのも、よく分かる。大事なのは、何を対象とするかではなく、心を溶け込ませ、空にするという役割を果たせればいいわけです。
そして、心が瞑想の対象に溶け込み、たとえ一瞬でも存在することをやめたとき、あなたは心ではないことに経験として直接気付く。 グルや先生、スピリチュアルに明るい人たちがが何と言おうとも、自分が自分の心ではないことを、直接経験する。ここがヨガが目指すゴールです。
そのあとの話
ちなみに、サマーディを達成した人はどうなるのか。インテグラル・ヨーガは、じっと座って目を閉じているのではなく、他の人々よりもずっと行動的で、他に人々のそれよりも完全であるだろうと言います。そして、動的であるけれども、静的であるように見えると書いています。
だから、何かとても大きく違って見えるということではないと言います。しかし「どんなことをしていても、彼らは彼らのしていることの影響を受けない。そこには、発芽を引き起こす執着という湿気がない―。彼らは生きながら解放された人々である」ということ。さて、ここまでヨーガ・スートラを詳細に読んできて、サマーディへの理解が深まったなか、これについて何を思うでしょうか。
さて、ここで八支則の話は終わりかなと思うところですが、次回は自然と起こるダーラナー、ディアーナ、サマーディの3つのステップについて書かれています。次回もどうぞお楽しみに。また来週、ここでお待ちしています。
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