YS 1.36 内にある光をイメージすることで
心を集中させる練習方法を続々紹介している、ヨーガ・スートラ。4つめの今回は、どんな方法でしょうか。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。
※前回分は、こちら『YS 1.35 感覚器官を活用することで』をご覧ください。
ヨーガ・スートラ第1章36節
विशोका वा ज्योतिष्मती॥३६॥
viśokā vā jyotiṣmatī ॥36॥
ヴィショーカー ヴァー ジョーティシュマティー
Or the luminous state which is beyond sorrow (can control the mind). (1)
あるいは、悲しみを越えた光り輝いている状態(が、心を制御する)
より意味が伝わるように、足りない部分を補足してスートラを読ませてくれるインテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(以下、インテグラル・ヨーガ。参照2)は、「あるいは、永遠の至福に満ちた、内なる無上の光に集中することによって。」と書いていた今回のスートラ。しかし、実際にサンスクリット語で書かれているのは、上記の通り、もっと簡素でシンプルでした(こちらは、フォーチャプターズ オブ フリーダム(以下、フォーチャプターズ。参考1)の英訳+わたしの和訳)。心を集中する方法を次々に紹介している流れだから、そこに集中せよということだろうと想像できるわけですが、面白いなあと思いながら、解説を見比べていました。
と、脱線から始めてしまいましたが、自身の内にある光に集中せよというのが、ざっくりとした今回の提案のようです。どんな光なのか、どこにあるのか、ということについては、バラエティがあるようです。
インテグラル・ヨーガがすすめるのは、心臓と書いてハートと読ませるそこの中にきらきらと輝く光球を、または美しく白熱する蓮華を思い浮かべよと書いています。
フォーチャプターズは、音(nada)や眉間の間(hrumadhya)に集中しながら、穏やかな光輝をイメージすることと書いています。面白いなと思ったのは、これらの方法を「光を可視化する方法」と表現しているところ。もう既にあるものだという前提が分かります。気付いていないけれどあるそれを、意識を向けることによって、見ることができるよということでしょうか。とはいえ、実際に目で見るわけではないので、トラタカ瞑想と呼ばれる、ロウソクの火を凝視して行うのとは違うようです。また、自分の身体のパーツだけでなく、音の中にも光輝があると書いているので、もっと詳しく知りたいところですが、それ以上の説明はありませんでした。残念。
ハリーシャ(参考3)は、光り輝く蓮の花をイメージする方法を紹介していました。それをイメージする場所は、骨盤底から頭のてっぺんの間の真ん中。そこが自分の中心で、だから必ずしも心臓のあるところではないということです。自分で探しに行くスタイル、これもいい。
これはやってみたいなと思う方法、ぴんときたもの、あったでしょうか。あったらぜひ、やってみるに限ります。そして、やり方をあれこれ変えてしまうのは、心の動きを静かにするためのプラスなアクションではないので、これと決めたら、納得するまでそれをやり続けることをおすすめします。
そして、スートラ曰く、この光は悲しみを超えたところにあるということ。何かに心が動かされて悲しみに振れてしまうことがない状態、うーん、これも想像するしかない。ここでいう光は鋭く強いのではなく、穏やかで、温和で、静かな光だということです。激しく射貫かれるというよりは、優しくそこに在るようだよということ、内側に光を探しにいくヒントとして覚えておきたい。
ハリーシャは、このスートラを「たとえば悲しみのないさま、光輝なものといったサットヴァな性質をもつものに集中せよ」と読むこともできると書いています。始めに書いた通り、簡素に書かれたスートラだからこその可能性。
スートラ1.16 で少し触れたサットヴァ(純質)と呼ばれる性質を覚えているでしょうか。世界の根源にある3つの自然の性質はグナと呼ばれ、そのうち喜び、透きとおった、公正、軽さ、知性などの性質はサットヴァ(純質)と呼ばれています。つまり、光に限らず、もっと大きな範囲である「サットヴァな性質をもつもの」に集中する。
そして、そこから "わたし" であることに純粋に気付いている状態に進んでいく展開があるという、作者不明の解説も紹介していました。サットヴァな性質のものは世界を構成する1/3なだけですが、心や感情の動きが静まり、本来の "わたし" である状態を目指すヨガを実践する者は、サットヴァな生活をしなさいとは、良く書かれていることです。それを改めて思い起こしてみれば、サットヴァなものに集中することは、目指すところに近づいていく大事なステップだろうと想像するのは、難しいことではないよなと思います。いかがでしょうか。
こんな話を、うーん分かるようで分からないなと思いながら読んだ後に、もう一度、瞑想をするにあたって起こるステップについて書かれた スートラ1.17 を読み直すのをおすすめします。今回のスートラがいう悲しみを越えた状態(=喜びの感情がもたらされている状態?)にも触れているし、その先に純粋なわたしであることの意識が待っていることも書いてあります。なにより、そのステップの最初が、集中する対象の本質を分かっていないまま推し量って認識しているというところから始まっているのも、ひざをポンと打ちたく、、なりませんか?今回の光についても、初めから確固たる理解がなくてもひるまなくていいということです。
ということはやっぱり、練習を続けるならば、そのステップをなぞることになるわけで、だからやっぱり何を対象にするかはさほど問題ではないんだろうなと、わたしには腑に落ちる瞬間でした。敬意をもって練習をすることは大事ですが、先人が残してくれた地図があるから、自由にできるんだなあきっと。ちょっとなんだか胸アツです。そしてその熱は、練習に向かうモチベーションになるわけで、だからまあ、やりますか。ね。
毎回つけているサンスクリット語の音声ですが、実は第一章分しか用意がなくいので、楽しみにしてくださっている方に申し訳ないなと思っています。インドにいるインド人の先生に読んでもらっているのを録音しているんですが、コロナでインドにしばらく戻れなくなってしまったため、続きが録音できないのが原因です。ぜひ、あるうちに、楽しんでもらえたら光栄です。そして、まだ聞いたことがない方、ほれぼれするいい声なので、ぜひ聞いてみてくださいね。
さて、集中する方法あれこれ、まだまだ続きます。この一連のながれ、最後がまた面白いんですが(わたしは吹き出しました)、積み重ねがあってこそなので、ぜひ懲りずにお付き合いください。次回はこちらからどうぞ⇩
※ 本記事の参考文献はこちらから
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