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YS2.55 プラティヤーハーラ: その喜びは分かち合える

ヨーガ・スートラを有名たらしめるのが、ヨガのゴールを目指す8段階を記す八支則。ヤマ、ニヤマ、アーサナプラーナーヤーマときて、今回は5つめのプラティヤーハーラについての2回目。八支則の途中ですが、今回でヨーガ・スートラの第2章が終わります。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.54 自身のもつ光に気付くために」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章55節

ततः परमा वश्यतेन्द्रियाणाम्॥५५॥
tataḥ paramā-vaśyatā indriyāṇām ॥55॥

There is highest mastery over the sense organs (by pratyahara). (1)
プラティヤーハーラによって、感覚器官に対する最高位の支配が得られる。

外の世界のあれこれを知覚する感覚を、その対象から切り離して、内側へ向かうと決めた心に従うことが、プラティヤーハーラでした。今回は、プラティヤーハーラの恩恵について。


知らなかった自由に出会うかもしれない

感覚をコントロールできている状態を、「あなたをどこへでも好きなようへ連れて行ってくれる従順な馬となる」と書いているのは、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)です。外の世界の、たとえば美しいものや、楽しいもの、美味しいもの、それらを知覚しないことを想像すると、なんだか残念なことのようにも思えます。でも、この表現は、なんだか新しい自由を手に入れることができるように聞こえませんか。

実際に、インテグラル・ヨーガは、外の世界のあれこれを知覚することは一時的な楽しみであり、後で落胆が訪れると続けています。たとえば、美味しいものは、食べてしまえばなくなるし、もったいないと食べずにいれば、腐って食べられなくなるわけです。


物事は必ず変化するというのが、外の世界、プラクリティの本質。それに対して、感覚の「統御によって得た喜びは、一時的な喜びよりも長く続く」とし、「それが本当の自由であり、真の勝利である」と書いています。

その本当の自由というのは、「自分自身の心と感覚から自由であれば、その人を縛ることのできるものは何もない」からであると言います。これ、少し時間をとって考えてみませんか。自分が考えてきた自由ってなんでしょう。そして、ここでインテグラル・ヨーガがいう自由と、どう違いますか。そして、それについて、どう考えますか。


興味の方向が変わることで

フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、瞑想し、心の奥深くまで潜っていきたいならば、物質的な世界から自身を内側に向けることは、絶対に必要であり、物質とのコンタクトは切断するべきである。なぜなら、そうでないと、深い意識のありさまに気付くことができないからだといいます。


ここで、前回のスートラの解説で、ハリーシャ(参考3)が言っていたことにつながっています。内側の世界に興味をもつこと、知りたいと願うことが、プラティヤーハーラに到達するために最低限必要なことだということ。

だから、外の世界への興味を少し減らしてみるのもいいんじゃないかとハリーシャは提案しています。社会生活を送る上で、すべてなくすわけにはいかないけれど、たとえば1日のうちの少しの間だけ、自身の中で浮かんでくる考えや、感情、認識への強い興味を手放す。手放すことが難しく感じたら、例えば、放置する、追わない、自由にするなど、表現を少し変えてトライしてみるのもいいです。そうすると、心がその動きを休める。


自分らしくあることは、大事なことだろうと思います。自分らしいと思うことで、心が落ち着く場所を見つけることは容易になると思う。でも、その〈自分〉は、本当に自分なのか。自分が本当の自分だろうと思っている自分は本当に自分なのか。

わたしは、これについて懐疑的です。ヨーガ・スートラの第1章でさんざんサマーディについて書かれていましたが、その域を知らないままに、〈自分〉を知ることってできると思えないし、わたしが思う本当の自分は、多くの場合、こうであったらいいと思う自分象だろうな、と思っていることを自分メモがてら残しておきます。

ヨーガ・スートラを1節ずつじっくり読むを、このnoteに書き始めたのは2周目ですが、このあたり、5周目くらいにはもうちょっと理解できているといいなと思います。

以上、余談でした。


では、どうやって感覚を内側に引き込むことができるか。

たとえばマントラを唱え続けたり、キルタンをうたったり、一点を見つめたり、という様々な方法があると、どの解説も述べています。ハリーシャは、その数ある方法のなかで、これが一番努力を必要としないから一番いい方法だろうと書いています。これもね、考えて、自分の練習だから、自分と相談してみてください。

フォーチャプターズは、ベストな方法をグルが選ぶと書いていますが、インドの古い伝統の方法でヨガを学んでいない私たちは、自分との相談を忘れないようにしたい。


その喜びは分かち合える

今回を終わりにする前に、インテグラル・ヨーガが、それが本当の自由だと書いているところに話を少し戻します。


それが本当の自由だとして、自分一人で楽しめるものなのか、それは寂しくはないのかと思いませんか。たとえとして適当か自信がないですが、たとえば、わたしは自由きままな一人旅が好きですが、誰かと旅行すると美味しいねとか楽しいねとか、感動を共有できていいよなという思いが心の片隅にあります。

でも、フォーチャプターズは、この自由について、「少数の人々だけの特権ではない。それはすべての人々のものである」と力強く書いています。だから、「内なる平安と喜びを見出すことがことができ、それと同じものをすべての人々と分かち合うことができる」と書いています。


ヨガのゴールはひとつだけど、そこにたどり着く方法はひとつではないということは、ヨーガ・スートラが繰り返し書いていることでもあります。たとえ旅路が一人のように感じでも、ただ違う道を行っているだけで、同志はいること。そして、その平安と喜びを内側で見つけたとしても、分かち合うことができること。それを、覚えておきたいなと思います。

楽しいけれど、楽しくないこともありますよね。自分の内側をのぞきこむって。だから、それでも進むと決めた人には、ぜひ覚えておくといいだろうと思うし、わたしもしっかり覚えておこうと思います。


八支則の途中ではありますが、今回でヨーガ・スートラの第2章は終わりです。フォーチャプターズは、これについて、このチャプターは、ヤマ・ニヤマに始まり、プラティヤーハーラに終わるサーダナー(修練)を与えることを目的としていると書いています。

確かに多くの宿題をもらったような気がしませんか。そして、ここで思い出したいのは、この章には「実習部門」というタイトルがついていること。技術を習う章だったわけです。

ではここから、どこに向かうのか。第3章が始まる次回もどうぞお楽しみに。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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