見出し画像

YS3.5 知の光にまた出会う

さて、ヨーガ・スートラを有名たらしめる八支則の説明を経て、最後の3段階 a.k.a. サンヤマについての説明が続いています。さて、どう説明が展開していくのでしょうか。

※前回は、こちらの「YS3.4 サンヤマがもたらすもの」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第3章5節

तज्जयात्प्रज्ञालोकः॥५॥
tajjayāt prajñālokaḥ ॥5॥

By mastering it (samyama) the higher conciousness dawns. (1)
サンヤマを習得することによって、高位の意識が出現する。

サンヤマとは、同一の対象について、ダーラナー、ディアーナ、サマーディにたどり着くことだという定義が示された前回のスートラ。言葉の定義のあとは、それによる恩恵を紹介するのがヨーガ・スートラのいつものながれ。というわけで、今回はサンヤマを習得することによる恩恵について。


段階を経て現れるものがある

読み比べている3つの解説書の訳が、それぞれ微妙にニュアンスが違うので、腕まくりしながら読み比べてみようと思います。


まずは、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)の訳(正確には、フォーチャプターズが英訳したものを、わたしが和訳したもの)から。

一番シンプルな訳だなと思ったので、今回、上部でも紹介することにしましましたが、それが「高位の意識が出現する」。解説によると、集中の対象の高位の意識が顕在化するということのようです。

たとえば、対象を目で見ているならば、それは感覚的意識(sensual consciousness)。目を閉じてその対象を見ようとするならば、それは精神的意識(mental consciousness)。その対象が影のかたちであらわれるなら、それは更に深いところにある意識(deeper consciousness)。そして、突然それが内側で最も明瞭で最も鮮明に光りはじめたら、それが高位の意識(higher consciousness)だということです。

これ、どの段階まで経験したことがあるかを考えてみるのもいいかなと思います。できるできないの確認というよりは、この解説の内容を、少しでも自分によせるために。第3章は、いままでよりもっと未知の領域の話が続くので、足場を踏み固めながらすすみたい。


それは光

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は「知の光が生まれる」、ハリーシャ(参考3)は「洞察の光が現れる」と訳しています。

この2つに共通しているのは、「光」と表現しているところ。私たちが認識しているこの世界を構成するとヨガが考える3つのグナ(性質)のうち、まずは目指すところのサットヴァの特性として光は挙げられるし、グルという言葉は暗闇(=無知)を取り除く者、つまり光へ導く者という意味だし、暗闇の中の道に落ちているロープをヘビと見間違うというたとえを使って光(=知)の大切さを説く話を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。その光が、サンヤマを習得することで生まれる。


ハリーシャの訳(こちらも彼がサンスクリット語を英訳したものを、わたしが和訳したもの)にある「現れる」という意味で使っている単語は、dawn。この単語、名詞だと夜明けという意味もあるということを考えると、サンヤマを経て出会うのは、夜が明けていくように、光に満たされていくかんじのかもしれない。

ドラマチックさを過剰に助長するのはいかがなものかと思いますが、サンヤマを過ぎると光が明けてくる、と想像してみませんか。この先にたどりつくかも分からない道がヨガの実践・練習の先にあるとして、こんなイメージのものが待っているんだろうと頭の隅に置いておくのは、いいですよね。


繰り返し説明されている

もう少し解説の比較を続けます。

既に書いた通り、光は、多くの場合、〈知〉のたとえとして使用されます。私たちが自覚している知性や、本や他人から聞いて得る知識とは、違う〈知〉のことです。それについては、だいぶさかのぼりますが、YS1.25 で説明があるので、復習も兼ねてぜひ。


そして、それがあるからインテグラル・ヨーガは知の光としたのだろうと推測しますが、ではなぜハリーシャは洞察の光としたのか。その答えは、既にサマーディの過程で知が現れるという説明があったYS1.48 に。


このどちらも、そして今回のスートラの解説でもインテグラル・ヨーガが書いていますが、その知、または真理は、「誰かが何かを新しくつくり出すのではない。ただ何らかの心理が隠されていた、サンヤマによってそれが何だったのかが分かった、ということだ」と書いています。

サンヤマを経てアクセスするそれは、どこかから引っ張り出してくるのではなく、自身の底に眠っているということ。


このことを覚えておきたいなと思います。

実際にサンヤマの境地に達するような練習ができているかといえば、足りないよなあと思うし、そもそもおこがましいような気持ちすらしてしまいます。ただ、わたしがおこがましいと思っていても、執着にからめとられているときも、それこそが心があちこちに飛び回っていても、わたしの心の奥の奥には、知がねむっているわけです。

それを知っておくこと。いまいち信じられないけどなという方は、そう仮定してみる。そして、それがヨガの練習や実践を、ひいては普段の生活がどう変わるかを観察してみるのも面白いのではないかと思います。

わたしの実感としては、むしろ普段の生活のよしなしごとで心が動くとき、でも自分の根っこには知がねむっているということを思い出せると、少し心の余裕ができるような気がします。目の前の出来事、その出来事によってざわざわ波打つ心を、少し離れたところから眺められるような気がします。

それが、正しい解釈なのか、少し違っているのか、実際のところどうなのかなどなど、分からないことだらけです。でもそうやって、仮定を立てて、実験して、結果を考察するというのを繰り返しながら、ヨガの理解が深まればいいなと思っています。賛同いただける方、ぜひご一緒に。


サンヤマの話まだまだ続きます。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



励みになります。ありがとうございますー!