見出し画像

YS 1.51 さあ始めるよの合図に、ぐるっと回って戻ってきた

さて、いよいよヨーガ・スートラ第1章の最後の1節です。引き続き、読んで、想像して、備える。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もよろしくお願いします。

※前回分は、こちら『YS 1.50 パワフルであるということは』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章51節

तस्यापि निरोधे सर्वनिरोधान्निर्बीजः समाधिः॥५१॥
tasyāpi nirodhe sarva-nirodhān-nirbījaḥ samādhiḥ ॥51॥
タシャーピ ニローデー サルヴァニローダーンニルビージャハ サマーディヒ

この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルビージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。(2)

前回、私たちのこころとサンスカーラの密接な関係を改めて認識したうえで、ここの段階のサマーディで発生する至上の知から発生するサンスカーラは、他のサンスカーラを抑制するということが書かれていました。今回のスートラは、そのパワフルなサンスカーラすらも完全に消滅する。それが最後の最後のサマーディであるニルビージャ・サマーディであるということです。

少し前にさかのぼりますが、対象を据えて始めた集中が深まり、その対象を分解して認識した状態を経て、更にその形容するが言葉や概念が消滅したけれど、まだそこには種が残っているんだよと書いていたのが、スートラ1.46 でした。

ずいぶん深まった瞑想も、そこに種が残っているならば、それが分裂したり何かを作りだすことによって、こころや感情の揺れを引き起こす。前回紹介したハリーシャ(参考3)の解説では、ここで残っていたサンスカーラは、わたしたちが日々振り回されているそれよりも、もっと根源的だと書いていました。今回のフォーチャプターズが、他のサンスカーラが彼らの効果を掛け算をするように増加するのに対して、この至上の知に満ちた状態であるリタムバラー・プラジュニャーは種のない状態を発生させると書いていますが、それすらも消滅させる。

瞑想の対象をいくつも紹介したうえで、まああとは自分の好きなものでいいよと書いていたのは、スートラ1.39 でした。そこで、大事なのは手段ではなくて目的だよと書かれていたのが、ここでまた思い出されます。

たとえば、ヨガが目指すこころ奥底で目の前で起きていることを眺め続けている〈見るもの〉プルシャであっても、全ての始まりと終わりを現す普遍的に存在する うねり を象徴するオームであっても、それはサンスカーラの種になりうるので、消滅させなければならない。このヨーガ・スートラだってそう書いているのは、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)です。なぜなら、知性の境界の限界が消えるため、構造や形式としてあるものも消滅するのだから、このヨガというシステムも、例外ではないということです。


そして、そこには完全なる安定と静けさがある。これ、「ヨガとは、心や感情の揺れが静止した状態のことである」と書かれたスートラ1.2 に、ぐるっと回って戻ってきたよねというのはハリーシャです。確かに、気付けば51節の長い旅に出ていました。

しかし、あの時に理解していた静けさとは、厚みも深さも違うはず。たとえば、フォーチャプターズが、そこにある静けさは固定されて変化がないのとは違い、力強いダイナミックでなものであると書いている。超越的な静けさだと書いているそれは、集中しているときというのは完全に固定されているのではなく、蛇口から一定の水が流れ続けるようなものだというのと、同じ考え方なんだろうと考えることができる。

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2)は、「あなたは完全に自由となる。あなたはもはや死も誕生もない。自らの不滅性を悟っているからだ。」と書いています。構造や形式がないのであれば、生と死をめぐる人生の構図や、この身体という世界との境界線からも自由だというわけです。このサマーディというものの出力の仕方は、日本語の記事や書籍で目にすることが多いので、日本のヨガの表現の主流なのかなと想像しますが、これを読んでそう胡散臭さも感じない... 少なくとも、軽減しうるヨガのシステムの説明を、51節分かけて読んできました。(あと2章分残っていますが)


とはいえ、知ったからこそ、ますます果てしないなあと心許ないなあと思ったりしませんか。ハリーシャは、種無しのサマーディを経験するには、種ありのサマーディを経験するのはマストだからねと当たり前だけど大事なことを述べていました。ここの状態に達する前に、与えられた経験や知覚したものを圧倒的なほどの清澄さで経験する能力に磨きをかけ、すべての認識は純粋な意識の元に置かれていなければならないわけですよ、と。

だからまあ、そういう道筋がこの先にあるんだなと、理解しうる範囲で理解した1秒前の自分とは違う今の自分で、まあ練習しましょうかということに、たどり着くのではないかなあ。アヴィヤーサとヴァイラーギャなんてのもありましたね。

そう思うと、先に書いたように、本当にぐるっとひと回りしてきたんだなあと思います。スートラ1.1 が、さあ始めようと合図してくれたように、今の自分ともう一度、今度は自分で。


1章最後のスートラも、ぜひ口に出して終わりにしましょう。


第1章完結ということで、すこしお休みをいただいて、今までの分の体裁を整えたり、修正・加筆の時間にしたいと思います。次回は2週間後の6月2日(水)、第2章のドアの前でお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



励みになります。ありがとうございますー!