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YS 2.45 イーシュヴァラ プラニダーナ: 何を信じるかは選べる

ヨーガ・スートラを有名たらしめるのが、ヨガのゴールを目指す8段階を記す八支則。2つめのステップは、勧戒と日本語で訳され、こういう姿勢であるのがいいよと説明するニヤマです。今回は、シャウチャ(浄化)、サントーシャ(知足)、タパス(自己鍛錬)、スヴァディアーヤ(読誦)に続く、最後の5つめ。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.44 スヴァディアーヤ:望むなら」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章45節

समाधिसिद्धिरीश्वरप्रणिधानात्॥४५॥
samādhi siddhiḥ-īśvarapraṇidhānāt ॥45॥

神にすべてを任せることによって、サマーディは達成される。(2)

さて今回は、このヨーガ・スートラで3度目の登場となった、イーシュヴァラ プラニダーナです。


初めまして、ではない

イーシュヴァラ プラニダーナが初めて登場したのは、サマーディへたどり着くのを早めるための方法の1つとして紹介された第1章23節。前回も紹介しましたが、その記事のリンクを貼っておきます。

おさらいしておくべきは、イーシュヴァラという神の名は、特定の神を指すものではなく、かたちもないということ。また、サーンキヤ学派の実践編として派生したヨーガ学派が、人々の生活を守るために、神というコンセプトを取り入れたのではないかとフォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)が解説していたのも、頭の隅に入れておくといいかなと思います。


2回目は、いまの第2章の始めの1節でした。このときは、クリヤー・ヨガの形成するものの、ひとつとして。

この回の解説で、フォーチャプターズが「”私のもの”は縛り、”あなたのもの”は自由にする」と書いています。神というコンセプトを取り入れた意図は、ここにあるわけです。

今回のインテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)の解説が「すべての不安は、愛執と、所有物への執着のためである」と書いているのも同じことですが、その執着を手放すためのイーシュヴァラをヨガに連れてくる必要があった。そう考えると、ヨガは宗教なのかについてで及び腰になったり、反対に、神に陶酔する心をおさめ、さてどう向き合ってみようかと考える余地があると思いませんか。机上の理論より、経験していくことに重きを置くヨガのカッコよさかなと思います。


フォーチャプターズが、先に紹介した解説と共に、わたしたち自身が与えたものは決して失わないんだよとも書いていることも紹介しておきたいと思います。それについて考えることは、〈所有する〉ということの根っこをのぞきにいくことでもありますよね。そして、それは基本的な姿勢として、どこをどう目指すかについても示唆しているはずです。

3回目のイーシュヴァラ プラニダーナ。今までの解説を読んできて、今回のスートラで真新しいアイディアがないことを考えると、リマインドなのかなと思います。分かるとできるのギャップは、なんといっても深い。


実るものは

インテグラル・ヨーガもハリーシャ(参考3)も、イーシュヴァラ プラニダーナに確立することで、「サマーディが達成される」と書いています。サマーディは、八支則の最終到達地点。そこに、ここでもうたどり着いてしまうのかと思うところですが、フォーチャプターズは、厳密には違うと書いています。

実際に今回のスートラの訳でも、他の解説書2つが「神にすべてを任せることによって」「神へ強く没頭することで」という訳をつけているのに対し、フォーチャプターズは、「トランス状態になることに成功する」という訳をつけています。


ここでいうトランス状態とは、第1章で細かくみっちり解説のあったサマーディとは違うもので、身体への意識を失うことにより、より深い意識をスタートラインとして、完全な静寂と結合の状態にとどまることができる状態だといいます。そして、ヨガが障害物であるとする心と身体を取り除くために使用しているだけだとまで述べています。

今回でヤマ•ニヤマの10項目を読み終えました。インテグラル・ヨーガは、この10項目の1つを実行すると、「残りのすべても自然に行われることに」なり、ひいては「集中と瞑想、さらにはサマーディさえもがもたらされる」と書いています。

サマーディという言葉があったとしても、そこには濃淡の程度が存在する。それは、聞いてたんと違うぞ!と落胆することではなく、ああこの道がつながっていくんだなということだろうと思います。そのつながりに目をこらし、自分をのせるべく経験していく過程を細かに書いているのが、ヨーガ・スートラだなあと思います。


とはいえ、目的は目的で、手段は手段。〈神〉という大きなものを持ち出した時に、弱さが出てきてしまうことはありませんか。自分が大きなものに対して無力だと思って、そこに寄りかかってしまうことはないでしょうか。

わたしはあります。そんなときに、きっちり「違うよ」と声をかけてくれる以下のリンクをシェアします。


そして、ヨーガ・スートラをさらっとなでるだけでは絶対にとばしてしまう、次のスートラもぜひ。タイトルの通り、唱えるマントラの対象であることが多いヒンドゥー教の神さまたちも、ヨガの最終目的地の途中をさまよう者だよというスートラ。こんな面白い角度で「自分は誰だ」と問われることあるかなあと思っています。...ヨーガ・スートラ ...推せる!


ヨガに縁をもったものとして不遜かもしれないですが、同意できないものは同意できないし、書かれていることを丸呑みにすることはできない。だから、それいいねと思うものについては、やってみないとなと思います。

わたしは、神道でお葬式をおこなう鹿児島県にルーツがあり、カトリックの幼稚園に通い、モルモン教のユタ州で学び、いまヨガを学んでいます。通ってきた神さまの種類が違うことが障害になることが全くないことは、とてもラッキーだと思える経験もあります。

何を信じるかは選べる。そして、信じるときの、心と身体をちゃんと見ておこうぜということではないかと思う、八支則の次のステップに続きます。


ではまた来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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