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YS 2.44 スヴァディアーヤ:望むなら

ヨーガ・スートラを有名たらしめるのが、ヨガのゴールを目指す8段階を記す八支則。2つめのステップは、勧戒と日本語で訳され、こういう姿勢であるのがいいよと説明するニヤマです。今回は、シャウチャ(浄化)、サントーシャ(知足)、タパス(自己鍛錬)に続く4つめ。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.43 タパス:You own it」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章44節

स्वाध्यायादिष्टदेवतासंप्रयोगः॥४४॥
svādhyāyād-iṣṭa-devatā saṁprayogaḥ ॥44॥

From study and recitation of sacred texts, connection with one’s chosen deity. (3)
神聖な書物の学習と読誦から、望んだ神とつながる


スヴァディアーヤとは

今回のスヴァディアーヤについて、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)の解説はだいぶあっさりしていて、なんと2文だけ。

スヴァディアーヤとは、目を閉じて自分自身を観察すること。そして、その実践によって、望んだ神や女神に深く集中することができる能力が生まれるということ。スートラに書いてあるままを繰り返したような、特に新しい情報が解説に加えられているわけではなさそうです。そんな様子なので、スヴァディアーヤの訳を、自身を観察することとしています。


今回スートラの訳の参考にしたハリーシャ(参考3)や、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)の訳と少し視点が違うようです。

ハリーシャは、スヴァディアーヤは、現代、自身で学ぶことと訳して伝えられれることも多くあるようだけど、と前置きをします。そのうえで、スヴァディアーヤの本来の意味は、聖なる書物を学んだり暗唱すること、または、特定の神に関係する短いマントラを繰り返すことを指すと述べています。

インテグラル・ヨーガもハリーシャと同じ姿勢ですが、上記の内容に加え、各自が個人的に手ほどきを受けたサーダナ(練習・実践)を規則的に行っていくことも、スヴァディアーヤだとしています。

こう読んでいくと、まず、対象は、聖なる書物や、個人的に手ほどきをいただける方から受けたものという、先人の知恵であること。それをどうするかというと、学んだり暗唱したり規則的に行うことということなので、継続的に繰り返すことを指していることが分かります。


スヴァディアーヤが実るとき

継続的に何かを繰り返すことは、身体や心がそのリズムに乗りやすくなり、集中しやすく、また、集中が継続しやすくなる状況を作ります。そして、そこで起こっているのは、いわゆる〈自分〉が消えていくこと。さっきまで考えていたお腹すいたなあとか、あれどうなってるんだっけとか、そういう心の動きが消える。

こういう経験って、自覚があるかないかだけで、みんな経験していることだと思います。ヨガクラスで経験したという方も多いのではないでしょうか。

さらには、先人の知恵を対象にすることで、そこに敬意も連れてくることができるわけです。敬意をもつものに対峙するときって、自分が静かになりませんか。


このコンビネーションで、何が実るのか。それが望んだ神とつながるということ。そうか、それはきっと良いんだろうねというウェルカムな姿勢と、ヨガは宗教じゃないんじゃないのと懐疑的に思うのと、もしくはまた別の、自分の中にうまれたリアクションは、どんなものでしょうか。


後者の方は、マントラなどは特にヒンドゥー教の神さまが確かにいっぱい出てきますが、あくまで手段として、望むなら力を借りる対象としてあることを知っておくといいと思います。

また、基本的な姿勢としては、第1章23節でフォーチャプターズが解説しているように、インド哲学六学派の中のひとつであるヨーガ学派が人々の生活を守るために、神というコンセプトを取り入れたのではないかということです。ここでいう神は特定の信仰の神を指すものではなく、むしろ自身の中に在るものにつながっていくストーリーでもあります。

リンクを貼っておくので、興味のある方は、ぜひ読んでみてください。ヨーガ・スートラをざっくり紹介するときに、だいたいこぼれ落ちてしまうこの23節から、オームにつながるながれ。そうだったのかと目からウロコなストーリーなので、そういう意味でもぜひ。


では、その望んだ神とつながるというのは、具体的にどういうことなのか。

インテグラル・ヨーガは、マントラを繰り返し暗唱する方法について、そのマントラの基づく神に専念していると、自然と形が現れるといういうことのようです。ただし、「それは人間の形をとって現れるかもしれないし、音や光であるかもしれない」とのこと。ハリーシャは、そうやって自分と別のものとして現れるとする流派もあれば、神とひとつになるのだという流派もあると紹介しています。


学ぶこと、唱えることは、内省することだろうか

この先は、まあ余談です。

スヴァディアーヤを確立すると、神とつながるという今回のスートラの結論までを眺めて、ここでまた冒頭の疑問に戻りたいと思います。フォーチャプターズは、どうして、神聖な書物やマントラを学ぶこと、唱えることではなく、自身を観察することとしただけだったのか。

自分の経験として、それらを継続的に繰り返し行ったときのことを考えてみれば、確かに自分のことを考えることにつながるなと思いませんか。集中から外れるときの心の動きはとても明らかに分かるものだし、継続することで見えてくるのは、その都度違う自分の身体や心の状態ではないでしょうか。

これは私の意見ですが、わざわざ書かなくても当然のことだろうと思ったのではないでしょうか。たとえば、日本語でごはんというと、食事と、お米を炊いたご飯と、どちらをも指すようなことかなと。

この考察が明々後日な考察でないといいなと思いながらですが、ここで改めて、ヨガがインドでどう受け継がれてきていたのかを垣間見るような気持ちです。そもそも、ヨガは、グルから教わるものなわけですから、と、まだ現在形で話せることでもあるわけです。


そこに流れる大きな河の、一粒の水滴として、引き続き読み進めていきましょう。次回は、ニヤマの最後の5つめを紹介するスートラを読んでいきます。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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