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YS 1.27 オームと唱える

名前を呼ぶと、少し距離が縮まる。では、全ての知の種が完全に花開いている至上のプルシャ、純粋意識、イーシュヴァラ、などなどと呼ばれるその方の名前はなんでしょう。その問いに答えるのが、今回のスートラです。

※前回分は、こちら『YS 1.26 厚みと重み』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章27節

तस्य वाचकः प्रणवः॥२७॥
tasya vācakaḥ praṇavaḥ ॥27॥
タスヤ ヴァーチャカ プラナヴァハ

His signifier is the sacred resonance/the primordial vibration [of OM]. (3)
(彼を指し示すのは(オーム という)神聖な共鳴音/根源となるバイブレーションである。)

さて、今回のスートラで、イーシュヴァラの話が オーム というマントラの話にたどり着きました。

わたしたち日本語で学ぶものとしては、イーシュヴァラはイーシュヴァラという名前があるじゃないと思います。でも、イーシュヴァラという言葉は、サンスクリット語で一般的な神を意味する言葉なので、原文で学んでいると、それでどちらの神さんなんですかということになります。至上のプルシャとか、純粋意識とか、そうではなくて唯一のものとして存在するそれの本質を、どうしたら言葉で表すことができるか。それが オーム だということです。


オーム の表記はいろいろありますが、発音は AUM と書くと、音の背景が少し分かりやすくなります。Aを始まりの音と書いているのは、インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2。以下、インテグラル・ヨーガ)です。口を開くだけで出る音だし、舌の付け根ののどの位置で生まれるから、耳でとらえられる音はまず A で始まる。次にこれが、下と口蓋の間を通って唇の方に進むことによって、Uが生まれる。そして最後に唇を閉じると、Mが生まれる。つまり、この AUM の三文字は、音声のすべての段階、つまり始まりと、維持と、終わりを含んでいるわけです。

その3つに加えてもうひとつ、始まりのAの前、終わりのMの後にも、音にならないアナーハタ音というバイブレーションがあるといいます。インテグラル・ヨーガ曰く、『それは、他のすべての音がやんだときにのみ聞くことが出来る。考えることでさえ、音を生む。想念そのものがすでに発語の一形態だからである。考えることによって、オーム音の開始・持続・終止を超えた始源の音がゆがめられる。したがって、その音を聞くためには、静けさを保たねばならない。』

このアナーハタ音という無の音と、始まり、維持、終わりの音である AUM が、その他のすべての音が生まれてくる種子だと言います。すべての創造の源だからこそ、他のなんでもなく、唯一 オーム がイーシュヴァラを表現しうるのだということです。

さーてー! これを踏まえて、いったんここで、オーム と声に出してみませんか。


フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、また違う角度から眺めます。

ヨーガ・スートラがまとめられたと考えられている西暦100年よりもはるか前、紀元前700年頃から作られ始めた聖典群であるウパニシャッドの1つに書かれている内容の一部を引用し、最初の A は五感で感じる世界、U は潜在意識、M は無意識、と、一音それぞれを意識の在るさまと関連して理解すべきだと書いています。この方法をとって唱えることで、『ヨガを学ぶものは3つの顕在化した意識を超え、最終的には第四の意識の状態(turiya state)と呼ばれる、何もかたちとして現れず、耳にすることもなく、表現されることもない状態にあるプルシャへとたどり着きます。』ということだと。

・・・む、むずかしい。

この解説について、調べても調べても落としどころが全く分からず、これ以上かみ砕けないのは力不足です。すみません。でも、だからといってとばしてしまうのも、もったいないよなと思って書きました。オーム の音が、どこまで連れて行ってくれるかというのの深みの一片を、わたしはひえーと思ったし、読んでくださっている方に少しでもシェア出来たらいいなと思っています。・・・というね、正当化するみたいなのも本当はなしで、敬意をもって真摯にまずはやるというのがいいんだろうと思うので、ここでもう一回、各自 オーム と声に出してみませんか。
そして、どうだったでしょうか。


今回、インテグラル・ヨーガががものすごく饒舌に解説してくれていて、すごく面白いので、手元にある方はぜひ読んでみてください。そのインテグラル・ヨーガからもう少し。

オーム という うねり は、すべてのものの種子なので、普遍にそこに在るわけです。だから、『瞑想し、深く〈宇宙の音〉の中へ進み入った時、どう聞こえたかはひとや地域によって違う。人は究極的には、〈オーム〉すなわちそのうなりの体験をもって終わるのだ。しかしそこで自分の体験を表現しようと思ったら、誰でも自分の能力や自分の知っている言語に応じて、異なった言葉を使う。』ということだそうです。インドの昔の人たちには、オーム と聞こえたけど、他のところでは違うこともあるよねということ。ここでも、「真理はひとつだが、見る者はそれをさまざまに語る」という、ウパニシャッドに書かれた文章が引き合いに出されます。

だからきっと、今回のスートラには Aum とも、OM とも、ॐ とも記載がないんだろうと思います。その代わりに、ただ、共鳴とかうねりを意味する プラナヴァ という言葉を書くのみにすることで、そこをオープンにしたままでいいとしたのかもしれません。どれだけ偉大なものと見なされているかが伝わります。


なんだかものすごいんだなというのと、どうしても分かり切れないことなので、戸惑うこともあるかなと思います。ただ、それが継続して切れ目のないまま、神聖な音として崇拝され使用されてきたことがすごいことだと思いませんか。この音が何千年も世界中で神を求める心が注がれ続けているからこそ、この音自体が可能性を持っているはずだと書いているのは、ハリーシャ(参考3)です。私はうんうんと思います。

イーシュヴァラを見たり聞いたりすることが決してできないけれど、オーム と唱えることで体験することができる(かもしれない)。だから、やってみようよ、なぜならそれは、ヨガが与えてくれるパワフルなツールだからねと、ハリーシャは言います。そう、これはツールです。使ってもいいし、使わなくてもいい。そして、使う側の技量ももちろん問われるわけです。そう思って眺めてみたらいいんじゃないかと思うし、気になるなら少しずつ使ってみたらいい。自分の裁量はいつでも残っているわけです。


ながーく濃ゆーくなりました。読んでくださった皆様、ありがとうございます。わたしはもうお腹いっぱいですが、最後に今回のスートラを読んで終わりにしましょう。オームの前に存在するプラナヴァ、ぜひ自分の内に響かせてみたくありませんか。(私はしたい)


オーム とイーシュヴァラの関係、そしてその背景についてのスートラでした。では彼の名前をどう唱えるのがいいでしょうかという問いの答えが次回のスートラ。こちらからどうぞ⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



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