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YS 2.9 それは本当に怖いことなのか

ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」。苦痛を発生させる原因のおおもとは、無知だよという話から、エゴイズム、執着、嫌悪ときて、最後は「生にしがみつくこと」です。さてさて。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.8 それはあなたが選んだのか」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章9節

स्वरसवाही विदुषोऽपि तथारूढो भिनिवेशः॥९॥
svarasvāhi viduṣo-‘pi samārūḍho-‘bhiniveśaḥ ॥9॥

Clinging to life is an innate tendency, establised even in the wise, just as [it is in the ignorant].(3)
生へしがみつくことは生まれ持った傾向で無知と同様に、賢者にさえもある。

今回説明される苦しみの種であるクレーシャは、アビニヴェーシャ。生命への切望、生にしがみつくこと、生命欲、と訳されますが、つまりどういうことかというと死を恐れる気持ちということです。久しぶりになかなかハードコアなのがきました。


それは潜在的に潜んでいるし

死への恐怖ががあったら、それは苦しみを生み出す種になるだろうねと思います。でも、それを感じていますかと聞かれたら、わたしはピンとこないなというのが正直なところです。ちょっとどこか遠いとこの話のように感じられるのは、きっと生死に触れる機会が少ないままだからかなと思います。(死に触れる機会が少ないことは、ありがたいことですが。)

でも、たとえば昔に南米旅行をした時に、ガードレールのない狭い道の向こう側は結構な崖をいく長距離バスに乗っていて、運転手さん交代なしで運転続けてる中、地元のハードなリカーを飲んでるのを見てしまって大丈夫かなと思った時、確かに、いやここで死にたくないなとは思った。


YS2.4で、無知には休眠中、弱まっている状態、途切れ途切れになっている状態、活動的になっている状態の4段階があると書かれていました。フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は死への恐怖も同じで、子供の頃は休眠しているけど、35才から45才で芽が出て、それ以降に恐れる気持ちは強くなると書いています。

年齢的な意味であてはまるかどうかは、平均寿命が延びていることによる変化もあるだろうけれど、でも、まずはその種が自分にもあるよということに気付いてみるところから始めたい。

その上で、なぜ恐れるのか。それは、かつて死んだことがあるからだよと、ヨガは言います。


なにせ経験済みだからというわけです

古代からインドの死生観として輪廻転生、つまり身体が死んでも魂は死なずに生まれ変わるということが考えられていて、ヨガもそれを引き継いでいます。だからみんなが身体が消滅すること、つまり物質的な死を経験したことがあるということ。

その経験があるからこそ引き起こされる恐れだといいます。確かに自分に起こる死が一体どんなものなのかは分からない。そして確かに、次の生を引き継ぐ魂がないのであれば、分かることはない。


でもそれは、生物として生まれ持った本能みたいなものではと考えることもできますが、インテグラル・ヨーガ(パタンジャリのヨーガ・スートラ)(参考2)が、それについて『ヨーガは、「本能とは何度も繰り返された古い経験の痕跡で、心の湖の底に沈んだ印象である」と言う。』と書いています。本能は、気が遠くなるような過去からの経験に紐づいているというわけです。

さらに『ヨーガの哲学は、われわれのすべての知識は経験を通してくるということを思い起こさせる。経験なしにはわれわれは何ひとつ出来ないし、学ぶこともできない。書物でさえ、われわれが過去に経験した何かを思い出させてくれるだけである。』と書いています。

これについて、どう考えるでしょうか。それもあるかもしれないと思うか、いやないだろうと思うか。


だけど、このくらいで始めたい

フォーチャプターズは、生にしがみつくことは、身体への執着だから、その執着がへれば、死を恐れる気持ちも最小限に抑えることが出来ると書いています。

そう考えると、今まで紹介されてきた苦しみの種と照らし合わせることで、今回のそれの輪郭が、より濃く浮かび上がります。本質としての自分が身体でないことを知らず(YS2.5 無知)に、この身体が自分であると勘違い(YS2.6 エゴイズム)し、身体である自分を幸せにすることにとらえられ(YS2.7 執着)、でも本質としての自分ではないという勘違いは解消されないから痛みとなる(2.8 嫌悪)結果、なんとかならないのかと生にしがみつく(今回のYS2.9)ということ。


ま、ますます全然何とかなる気がしませんがと思うのは、わたしだけでしょうか。そんな壮大な仕組みに組み込まれた苦しみの種なんて、どうこうできるわけないのではと思います。実際に、今回のスートラは、賢者にだって同じ種があると書いています。

NYに本拠地があるダーマ・ヨガというヨガの流派があります。後屈と逆転のポーズが多く、スピリチュアリティについても臆せず語るのですが、その創始者であるダーマ・ミトラ先生のクラスに参加した時、ダーマ先生が、隣の人がどんどんアーサナができるのに焦らなくていいんだからね、その人は前世でもヨガしていたってだけだからねと言っていました。

この経験は何年も前ですが、すごくいいなと思って心に留めていたので、ヨガをする上でのベースになっていると思っています。何かについてのスタート地点が違うだけで、いまここにいるわたしは、いまここにいる自分に必要なことを選んでいくだけで、それは大きな川の流れの一筋を担っているんだなと思う。輪廻転生とそれに紐づく生と死の見方を、分からないながらに、わたしはそこからなら眺められるかなあと思います。


知らないことへの恐れに付き合ってみる

ハリーシャ(参考3)は、独自の読み方をしていて、死への恐怖というのは、死そのものを知らないからこそ起こる恐怖ではないかといいます。先に書いた通り、この身体としてある自分とは知らないわけです。

知らないことは、こわい。こうした方がいいと思うけど、どうなるか分からないから挑戦できない、というのは、振り返ってみればまあある話です。違う道を通ったとしても、そこにあるのはやっぱり無知なわけで、ここまでの苦しみの種を読んできたわたしたちは、そこを少しずつ何とかできるならば、他の苦しみの種にも少しずつ影響を与えることができることを知っている。

じゃあどうやるのさ、というのこそが、このヨーガ・スートラ第2章実修部門の真骨頂なわけです。そして、すでに第1章でもこんな方法あるよと教えてくれているのを思い出したい。パタンジャリがあれこれ教えてくれるのは、この方法が効かないなら、こんな方法もあるよと、誰をも取りこぼさずにヨガの道を進む人を応援しているはずだからです。


55節ある第2章の、まだまだ始まったばかりの8節目。はりきっていきましょう。また来週もここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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