死はタイミングです。
万物に等しく訪れる、死。恐れ戦くものから、恋でもしたかのように熱く焦がれる想いを持つものとさまざまです。
ぼくはおそらく後者ですが、強く望んだところで簡単に訪れてくれるものではありませぬ。
タイトルにもある通り、死はタイミングです。
死ぬ覚悟も持たず、現世を謳歌する輝かしい人生を歩むものに突如訪れたかと思えば、陳腐な己の不甲斐なさを俗世からの戯れと錯覚し、たかが戯れ如きに心の臓を掌握されるがままの愚か者には当分訪れなかったりするものです。
世のルールを資本主義とする現在、死を渇望するものとそうでないものの格差は広がってゆくばかりで、それを無に帰す死すらも、平等には訪れてくれません。
ぼくはホモソーシャルの敗北者です。
社会的動物である人間は、私利私欲のためにひた走ることをヨシとしません。他人に隷属し、自己を殺すことが社会へ溶け込むという近道に身を置く唯一の手段であると思います。太古の昔より、人間はそういう世界を種として構築することで、ここまでの発展を遂げてきました。
声を大きく発信する先駆者たちの尽力により、アイデンティティを社会ではなく自己へと帰属することはある程度容易となりました。が、賃金を得たり友人と語ったり、恋人と熱い夜を過ごすためにはやはり、社会への隷属がもっとも近道であることは変わりないのです。
そうなれないぼくを、励ましてくれるものは世に蔓延っています。
あなたはあなたのままでいいんだよ、とか、今日だけ頑張ればいいんだよ、とか、結婚だけが人生ではないよ、とか、お金で買えぬ幸せは溢れているよ、とか。
当人は良かれと思いこれを発信し、実際ぼくも助けられてきました。文学、音楽、映画にアニメ。恩師や友人、恋人からの言葉もありましたね。
ただ、今のぼくにはそれがあまりにも安っぽく、芯を食ったものだとは思えないのです。
綺麗なものはよく売れます。花も宝石も、女性もです。資本主義下で売れぬものに価値はありません。女性は本当に大変な世の中で生きていると思います。ルッキズムが取り沙汰されたところで、元来人間に備わる価値観がそうそう変わることはありません。
それら、売られたものを買えぬ男にも、等しく価値はありません。
繰り返しますが、ぼくはホモソーシャルの敗北者です。
社会を直視し、受け入れる覚悟を持たぬぼくは、文筆をもって社会へ反骨してやろうと逃避しました。手段はこれしかありませんでした。後悔はなに一つとしてないのです。こうしなければ、ぼくはすぐにでも死んでしまっていたのですから。
とはいえ、それは死のタイミングをずらし続ける行為にしか過ぎませんでした。
世の中のあれこれは、全て死んでしまえば解決するものばかりです。周りへの迷惑を鑑みるだけの思慮を持つものは、自らを取り巻く社会への隷属を余儀なくされているものですから、死から一番遠い存在です。
ぼくにも、友人や家族はおります。
しかしながら、それらに隷属すること自体がとても陳腐なものに思えてなりません。
決して望むものには訪れぬ、死のタイミング。訪れぬのならば、自ら訪れてやろうと思うのが人の常です。
自殺願望、というと厳かなように見えますが、結局のところ、人間は幸せを求めて生きる動物であり、ある人種にとって、自ら命を絶つという手段がそれに該当するだけなのです。
強い気持ちを持っていては、死を訪れることはできません。
自殺するなんて勇気があるなぁ、なんて宣う人たちは、何もわかっていない。死を訪れることができるのは、世の全てを受諾し、自らの胸中で噛み締め、仄暗い水の底に揺らぐなにかを探そうにも探すことができぬものだけなのです。勇気とは正反対なのです。
ぼくは勇気を持てぬことを祈り、明日を迎えることとします。
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