見出し画像

私小説|八月十二日 日記

 くたびれたサラリーマンが吊革にぶらさがる前で、スマートフォンの表示を見たぼくの胸はざわついた。応募していた文芸の新人賞が、突如中止になったのである。

 ぼくが文芸の新人賞へ応募するようになったのは、今年の春ごろからだった。何者にも成れない己を悟らぬフリをして、高校生時分、幾度となく提出した反省文の文体を妙に褒められたというあまりにも淡く脆い成功体験に縋り、ぼくは筆をとった。

 いくつかの作品を書き上げ、いくつかの賞に送ったところで、走る筆は速度を落とし、やがてトボトボと歩みだした。迷える歩みの焦点は定まらず、ふらりふらりと矛先を在らぬ方へとおどらせて、遂にはピタリと止まってしまう。見つめる虚空を透かした先には、目を背けつづけた現実が手招きしている。

 ふり払うように顔を上げるともうサラリーマンの姿はなく、老若男女が横並びに座っている。鬱蒼とした曇天がゆっくりと流れる背面の車窓には、他の乗客とゴッチャになったくたびれたぼくが映っていた。

 目を伏せたぼくは、懐より取り出した文庫本を開いた。銀河鉄道の夜。宮沢賢治の美しい言葉の羅列によって紡がれた、唯一無二の物語。しかし目を走らせてみても、まるで頭に入らない。お次は坂口安吾を開いてみる。ダメだ。読めない。

「次は、〇〇駅です」

 車内アナウンスが、ぼくの下車を焚きつけた。文庫本をしまい、立ち上がった。車窓からの景色は大雨だった。雪崩れる乗客に混じって、ぼくも下車した。屋根のないホームを見上げると雨なんか降っていなかったけれど、やっぱり曇天だった。

 改札を出た。そのまま、どこまでも続いているような灰色の空の下を、ぼくはただ歩み続けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?