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エッセイ|常識論

未曾有の病原体にて俗世は変わった。

無常とは日本古来の概念だが、現代においても真理である。皆の盲信する常識がいかに脆く、瓦解するに至るまで簡単であるかが露呈した。一度揺らいだ常識はすぐには戻らず、新たな偏見を生み、それが常識となる。ついさっき、無惨にも崩れ去るようすを目撃しているのにも関わらず、性懲りもなく常識を盲信する。

常識とは極めて曖昧でありながら、大衆の強力な偏見によって守られている。その偏見は大衆各々の経験により構築され、その経験は当時の偏見が大きく関わっている。偏見とは大衆の経験によるもので、それは古より続く人類の歴史が作り出した常識である。歴史が偏見を作り、偏見が常識となる。

常識とはロゴス的である。信ずるものを正とし、それ以外を誤とする。それは西洋のあらゆる宗教に見られるものと同義で、絶対神の元に平等を約束されることで安堵することと似ている。

日本の宗教観に絶対神は存在しない。八百万の神は常に人と共にある。水には水の神様、山には山の神様といったように、森羅万象全てにその息吹を覚える。そのため、日本の神々は曖昧である。
日本に絶対は存在せず、曖昧が存在する。

その曖昧を絶対と盲信することに、ぼくは大きな違和感を覚える。

歴史上遷移してきた偏見は云うまでもなく曖昧であるのにも関わらず、それによって構築された常識を絶対とすることは根本的にムジュンしている。絶対とは揺らいではならぬ。揺らいでしまうのならばそれは絶対ではない。

しかし、先に述べた無常という真理は絶対である。ので、曖昧であるということを絶対とすべきである。「絶対なんてものは絶対にない」ことこそが絶対である。

ぼくは常識とは曖昧であることを盲信し、これを執筆した。

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