ニュークラウン。

北海道の1週間の話は、また出来れば書き残しておきたいと思うが、
あの満天の星、流星群、ミルキーウェイは僕の語彙では表しきれないだろう。
あの方が時間を越えた瞬間の美しさは表しきれないだろう。
何度も交わした乾杯は、これからも続けていきたいだろう。

話変わって、昨夜は高校時代の友人の家へ深夜に向かい、いつものように最近の様々な事情を話し合う会を開いた。
お互いの音楽で仕入れた最新情報や映画の話。ノンアルコールで朝方まで話し合う。そして、僕が寝落ちして試合終了という会がかれこれもう10年以上続いているのは、もはや奇跡である。

付け加えておけば、この友人というのはペンタトニックを使わせれば京都では右に出る者がいないと、僕が信じてやまない京都・桂のジョンフルシアンテみたいな男。
バンドを解散してもう暫く経つけれど、未だにその情熱は沸沸としている様に思う。思うのだよ。彼は、この僕の文章を読む術が無いので届くことは無いのだけど。思うのだよ云々。

ともあれ映画、特に「marvel」に滅法強い彼から教わる事は沢山ある。
それこそoasisやWeezer、レッチリを始めとする洋楽を教えてくれたのは彼だ。
彼がサポートについてくれたお陰でバンドを経験出来た。彼が居なかったら歌う為にステージに立つという決断は出来なかっただろう。
なんなら、僕が恋愛感情というモノを人並みに芽生えさせた時、メールの文面や初めてのデートプランなども一緒に考えてくれたナイスガイだ。

話は大いに逸れてしまった。ナイスガイの事をつらつらしたくて開いた訳でない。でも語ってしまうほどナイスガイ。3割くらいの名詞を間違えて覚えているお茶目なナイスガイ。それを訂正するとちょっと拗ねてちょっと照れるナイスガイ。ご飯をあまり咀嚼しないナイスガイ。このくらい推せば、どんな奴か気になってしまうというのが人の性というものじゃないでしょうか。
ともあれ、そんな彼に今でも支えられている。

本題、と言えるほどのボリュームが無い事に今気付いてちょっぴりじんわりと手に汗が滲んできた現在。
満を持して、書き記しておきたかった事は「セトウツミ」という映画がとても面白かった。という発見。それだけ。
男子高校生二人が下校途中にある川縁の階段に座り、ただただ喋るというだけの映画。その斬新さ、ワードセンスの秀逸さ、高校生ながらの青さがどれも素晴らしく2人で見入ってしまった。菅田将暉さんと池松壮亮さんの掛け合いが素晴らしく、中条あやみの顔の小ささに驚愕し、僕は7割くらいの所で睡魔に押し倒されてしまった。
「最後まで観てへんのかい!!」という、せっかく此処まで辿り着いた方々の溜息や呆れ、親指を下へ向けながら唾を噴射している様は容易に想像出来るが、よく考えれば、ネタバレをしてしまってはその作品へのある程度の満足感を与えてしまうんじゃなかろうか。ここで一人でもこの作品に興味を持って頂ければ素晴らしいし、僕も寝落ちした甲斐があるってもんだ!と無駄な自己肯定を巡らせている。

因みに、ナイスガイは作品のオチを僕に教えてくれるという優しさを持ち合わせており、今回は「セッション」という映画の最後のクライマックスだけを観せながら、自らの考察を興奮気味に話してくるので、関西弁の副音声が入った珍しい「セッション」を体験する事が出来た。

こういう関係が10年以上経っても変わらずある事がとても嬉しいと思う。


そして、朝帰りの電車を待ってる間に気付いた事も最後に記しておきたい。
今までの音の捉え方の話。
僕は今まで、音のトップの部分。分かりやすく言えば蒲鉾板が付いている蒲鉾を想像して欲しい。
それをひっくり返して蒲鉾板を上に来るようにする。
その上部に位置する板を基準として「音」と解釈していた。
だけどもふと視点というか聴点を変えて蒲鉾本体の丸みの部分を軸に聴いてみたところ、今までにない響きが沢山いた事に気付いた。
それは声だけでなく楽器もそうだった。凄い事だ。いや、知らなかった事が逆に凄い。よく生きてこれたな、と自分に言ってやりたい。
板付蒲鉾と人体。なかなか合致しないかも知れないが、
上部にある板の部分が鼻。
下部にきている蒲鉾本体が声帯であり胸であり、つまり肺から送られてきた空気の初速を最初に感じる部分。
しかし、今まではそこはそこそこに、カーンと飛距離のでる木の板ばかりに目を取られていた。
バットを金属にしようがコルクを忍ばせようが、それ単体では飛ぶわけがない。
大切なのはボトム。プニプニとした食感、もとい職人さんが魚のすり身を一枚一枚、木の板に練り付けた結果、ただの板が蒲鉾板として名を持つようになるという事だ。
そして、その板は板単体になろうがその後「蒲鉾板」として生きる。仮に某神に唆された男に名前を書き込まれ、医者の看板に成れ果てようとも。

これは僕にとって、正に世界が反転してしまったかのような感覚だった。
そんな帰りの阪急電車のホームだった。
帰路、多分ずっと軽くステップを踏んでいたと思う。そんな自覚は大いにある。


札幌の乾燥した環境での歌唱により感じた反省点、というより違和感がこうした気付きに辿り着いた。
いつでもヒントは何処にでも何にでも隠れていて、そのヒントは毒にも薬にもなる。

ともあれ、楽しんだもの勝ちだと思う。

11月18日。

#京都
#音楽
#新冠
#セトウツミ
#セッション
#木梨サイクル

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