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パセリと共にどう生きるかを考える。

「ゆたかさ」って、なんだろう。
漠然と、「ゆたかさ」を感じることや、「今この瞬間って豊かだな。素晴らしいな。」と、思うことは、これまでにもあった。
しかし、改めて考えたことはない。

辞書で引いてみようと思う。
手元に辞書がなくたって、インターネットでちょろっと調べればすぐに何かしらの答えが出てくる。
これも、「ゆたかさ」のうちの一つなのかもしれない。

ゆた‐か【豊か】 の解説
[形動][文][ナリ]
1 満ち足りて不足のないさま。十分にあるさま。「黒髪の豊かな女性」「緑豊かな森」「才能の豊かな画家」「国際色豊かなマラソン大会」
2 経済的に恵まれていてゆとりのあるさま。「豊かな家に育つ」「豊かな生活」「給料日後で懐 (ふところ) が豊かだ」
3 心や態度に余裕があって、落ち着いているさま。「豊かな心を育む音楽」「心豊かに余生を過ごす」
4 量感のあるさま。「豊かな花房」「腰の豊かな丸み」
5 他の語に付いて、基準・限度を超えているさまを表す。「六尺豊かな大男」
[派生]ゆたかさ[名]

google検索したら1番上に出てきた。goo辞書より。

細かくたくさん書いてあるけれど、分かるようで、なんだかやっぱり分からない。
どうして分からないかっていうと、たぶん、美しさの定義とか、楽しさの基準とかと同じで、人によって答えが変わってくるものだから。

だからわたしは、わたしにとっての「ゆたかさ」について、考えたい。

わたしは、パセリがものすごく苦手だ。
パセリ以外のものは、普通に日本で生活していて食卓やお店で出てくるものであれば、何でも美味しく食べられる。
だけど、パセリだけはどーーーしても、口に入れると「オエッ」と、えづいてしまう。
これはもう、体が拒否反応としてえづいているわけなので、仕方ないとは思っている。

わたしの祖父母は、農家をしている。いろいろな野菜を作っており、これがまた本当に美味しいのだ。
だから、パセリに対しても、美味しく食べられないことは仕方ないのだが、申し訳ないなという気持ちがある。
そんな気持ちから、わたしは、ファミレスのデザートにちょこんと乗っかっているイタリアンパセリも、スープに彩りとしてかかっている細かく刻まれたパセリも、からあげ定食を頼んでレモンと共に添えられている茎ごとパセリも、「オエッ」をなんとか我慢して、涙を浮かべながらも他のおかずやお茶で流し込み、食べるようにしている。

と、まあこれは農家の孫であるわたしの意地という感じで、苦手な食材を好き嫌いして食べない人なんてありえない!とは、全く思っていない。
わたしも、一緒に食事をしているのが気のおけない友人であれば、「パセリ食べてくれたりしない?」と、お願いする。
パセリだって、より美味しく食べてくれる人に食べて貰う方が、幸せだろうし。
逆にわたしは、パセリ以外のものはなんでも食べられる上にけっこう大食いなので、少食な友人や偏食な友人の食べられないものを、貰い受けることもしてきた。

さて、この姿勢というのは、わたしの両親がなんでも好き嫌いせず美味しそうに食べる人たちだったから、育ったものだった。
そんなわたしの友人たちも、苦手なものがあったとしたら「ごめん、これ食べれる?」とシェアする子達だったし、どうしても食べられず残してしまうときは、「あー、ごめんなさいだー。」と、残念そうに、申し訳なさそうに残すような子ばかりであった。

そんな中、成人してから出会った人たちの中に、「まず!」とか、「こんなん食べれたもんじゃないよね。」と、平気で言ってのける人たちがいたことには、心底びっくりしたし、すごく悲しかった。

これは、大学時代の話であるが、学内でできた友人たちが「うちの学食ってくそまずいよね!」と、盛り上がっている場面に遭遇したことがある。

学食は、100円〜500円の中でバリエーション豊かに提供されていた。
朝食セットを100円で食べることができたり、夕食の時間帯にも提供されていたりと、一人暮らしの学生にとっては本当にありがたいと思っていた。
確かに味は、そりゃあ、普通に800円くらいで食べる定食屋さんと比べれば、レトルトって感じもするけど。

でも、朝早くに行って100円で食べた、ごはんと味噌汁と焼き鮭と卵焼きと漬物と納豆は、わたしの生活を充実させてくれていたし。
友人と、「お昼何にしようか?」と、一緒に選び、食べながら学問のことや生活のこと、恋愛や進路のこと、旅行の計画なんかを話して、最後にデザートでソフトクリームを食べたことは今でも良い思い出だし。
400円で食べた唐揚げ丼は、夜までかかってレポートを作り上げ、へろへろのわたしのお腹を十分に満たしてくれたし。
味がレトルトっぽいとか鮭がガチガチとか、そういうことは全く気にならなかった。
ありがたいと、思っていた。

それだけに、学食内で学食の悪口を言う友人たちには怒りの気持ちも湧いたが、同時に人の心や価値観は本当に様々だなと、感慨深くなったものである。

安いものはまずい。質が悪い。だから高いものだけ食べる。
高級でも味は大したことない。贅沢は良くない。安いもので十分。
恋人がお茶碗にお米をつけたままで許せるか、許せないか。
パン派ご飯派、うどん派ラーメン派、きのこ派たけのこ派論争。

こうして少し考えてみるだけでも、食事に関する価値観は色々と思い浮かぶ。

わたしが良しとする食事に対する価値観は、「なんでも美味しく、ありがたく受け取る姿勢」となるわけだ。
だから、安いものだって高いものだって美味しいしありがたい。
だから、恋人がごはんを茶碗にくっつけたままだったら、綺麗に食べてくれるようにお願いする。
だから、〇〇と△△どっち派と聞かれても、強いて言うなら好きなのはごはん、ラーメン、きのこだけど、比較対象を下げることは言いたくないし、出されたものやいただいたものは感謝してありがたくいただく。

今、例に挙げたのは食事であったが、生きていく中で自分が何かに対して価値を見出すことというのは、数えきれないほどあるわけだ。

働き方。
お金。
時間。
年齢。
恋愛や結婚。
出産や育児。
男とは?女とは?
障害の有無。
介護。などなど。

どれが大切に思うかとか、そういうことではなく。
「このこと」に対して「自分は」「何が大事で」「どうしたいのか」を「考える」という行為そのものが、とても大切なことなのではないかと思う。

そうやって考えること自体がゆたかなことで、考えて自分の中で選び取った価値観というものが、どんどん増えていったり、時には変化したりすることが、人生をゆたかなものにしていくのではないか。

「考える」という行為についても、「考えることは消耗する。」「疲れることなのでやらない。」「直感や閃きこそ大事だと思う。」等、考えることはしたくないという人もいるだろう。
だけど、「考えることはしたくない」という答えだって、その人が考えて出した答えなわけだ。

なんだかすごく、哲学的なことになってきたが、つまり、人は「考える」という行為から逃れられることはない。
あるとすれば、「死」か「脳死」を迎えたときだろうか。

わたしはそのときまで、小さなことでもたくさん考えたいし、それが人生をゆたかなものにしてくれることだと信じて、生きていきたい。そう思う。

わたしの友人たちへ。
もしかしたら、わたしの頼んだからあげ定食にパセリが乗っていて、「くそまずい、いらん。」と、考えもせずに言い出すことがあるかもしれない。
それって、これまでの人生でわたしが考えてきたもの、ゆたかに彩ってくれてきたものを放棄している=死ということだ。
そんなときは、「パセリと共にどう生きるか考えることがゆたかってことなんじゃないの?!」と、叱咤激励していただきたい。
よろしく頼みます。おわり。

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