神様の言う通り

僕が神様に会ったのは、なんてことのないありふれた夏の午後のことだった。日差しはジリジリと容赦なく照り付け、汗が静かに滴るような、そんな午後だ。  とは言っても、僕は涼しい部屋の中で、昨日の幸せな一日のことを思い出しながら休日を持て余し過ごしていただけなのだが。

幸せな一日とはつまり、2か月ほど前に婚約したばかりの君との、何度目かもわからないデートのことだ。別に何か特別なことをしたわけではない。ただ待ち合わせをして、適当に買い物をして、どんな家に住もうかなんて話しながら食事をし、式場の写真を見て照れて笑い合ったりして過ごしたのだった。

だから、突然現れた神様に「一番大切な人は誰か教えてくれよ」と問われたとき、真っ先に君の顔を思い出した。僕が何も答える間もなく、神様は「なるほどね」と言った。驚いて声も出ない僕に構わず、神様は続けた。

「じゃあ、その大切な人か、この世界の全ての人間か、どちらか選ばないといけないとしたらどっちを選ぶ?」

僕はやはり言葉が出なかった。あとから思えば、なぜこの突然目の前に現れた人物、いや正確に言うと姿形もよくわからない、この存在のことを神様だと思ったのかわからない。でも、僕の目の前に現れたそれは、無宗教の僕でも、神様というほか説明がつかなかったのだ。

それから僕はやっと声を上げた。無様にひっくり返った声で「ちょっと待って」と言った。すると神様は、恐らく不機嫌そうに眉をしかめただろう声で「なに」と返事をした。僕はノロノロとしか動かない脳みそに鞭打って、神様に問いかけた。

「なんでそんな質問をするんですか」
「ほんの気まぐれだよ。意味なんてないさ」

僕はこの、漫画のような展開についていけなかった。僕が彼女を選べば、彼女以外の人間がみんな消えてしまう。つまり、世界を選べば、彼女が消えてしまうってことなのだろうか。そう問いかけると、神様は事も無げに「そうだよ」と言った。

「なんで僕に聞くんですか」
「偶然だよ。たまたま。気まぐれ。通りすがり。別にお前が特別な人間だから選ばれたってわけじゃないから」

そう言うと神様はケラケラ笑った。夢と思うには妙に生々しいその笑い声に、僕は暑さとは関係のない汗をかきはじめていた。

「もういいだろ」と、神様は言った。僕は他に何を聴けばいいのかもわからなかった。神様は「一週間後にまた来るから、それまでにどっちか選んでくれよ。ああそうそう、この二択しか、選択肢はないからね」と言ったきり、いなくなってしまったようだった。神様に呼びかける僕の声だけが、一人暮らしの部屋に空しく響いた。

僕はなんてことのない平凡な人間であった。学生時代はクラスで3番目くらいのグループで過ごし、そこそこ普通の大学に進学し、適当に恋愛をし、適当に就職をした。人より優れたところなんてほとんどない。強いてあげるなら、昔はよく絵を描いていた。将来は漫画家になるなんて思っていた時もあったけど、一度だって何かの賞を取ったこともない。気付けば絵なんて描かなくなっていた。

そんな僕を特別な人間にしてくれたのが君だった。僕を一番に選んでくれたのが君だったのだ。どこかのかっこつけた歌みたいに、君を守るためならなんでもすると本気で思った。だから、人生で一番の勇気を振り絞ってプロポーズをしたんだ。僕も、多分君も、間違いなく世界中の誰よりも幸せになった瞬間だった。

街中で流れるあの曲たちのようにかっこをつけるなら、一瞬の迷いもなく世界よりも君を選ぶだろう。ついこの前、一生を共に過ごすことを約束し合ったばかりなのだから。だが、その結果、全ての人間が消えてしまったら?

神様は「人間が消える」と言った。つまり僕らは人間が一人もいなくなったこの世界で二人きりで生きていくことになる。電気も水道もガスも使えなくなるだろう。食料は? 病気やケガをしたら? 果たして僕は君を守ることができるのだろうか。

それじゃあ、もし、世界を救うことを選んだら? 君はどうなるんだろう。死んでしまうのだろうか。それとも、最初からいなかったことにされてしまうのだろうか。僕は、君がいなくなった世界でたった一人で生きていかなければならない。それなら、後を追って死んでしまおうか。痛いのも苦しいのも嫌いなこの僕が?

いくら考えても答えの出ない僕は、君に電話をかけた。君はいつものように明るい声で「もしもし? どうしたの?」と言った。

「もしもさ、僕か、世界か、どっちか選ばないといけなくなったらどっちを選ぶ?」
「えー、いきなりどうしたの?」
「いや、なんとなくさ」
「うーん。誰もいない世界で二人っきりで生きていくっていうのもロマンティックだよね」
「なるほどね」
「なるほどってなに。そんなそっけないならやっぱり世界を救ってヒーローになろうかなあ」

君はまじめに取り合っていないようだった。当たり前だ。こんなこと、起こりえないのだ。君か世界を選ばないといけないなんてそんなこと、ありえないのだ。もう電話を終えようとした時、君は言った。

「あ、ねえねえ来週さ、すっごい良い話してあげる」
「え、何? 今教えてよ」
「ダメ。会って話すって決めてるから」
「わかったよ。楽しみにしておく」

じゃあまたね、と君が言って、電話は終わった。君の言う「すっごい良い話」を聞くには、僕は世界を見捨てないといけない。君のために。

そもそもこんな白昼夢のような話を真剣に考えるのが馬鹿馬鹿しかった。起こりえないのだ。世界か君を選ばないといけないことなんて。それなのに、そう思って無頓着でいようとするには、あの神様の、男とも女ともわからない声が耳に張り付いて離れなかった。

君以外の誰もいなくなってしまった世界について考える度、通りすがりの名前も知らない人たちの笑顔が嫌に目についた。友人から送られてくる生まれたばかりの子供の写真に胸が痛んだ。大学時代の後輩は、WEB漫画での連載が決まったと連絡をしてきた。この世界で生きるのは、僕らだけではないのだ。

そうして何の結論も出ないまま、一週間が経ってしまった。君と会うために電車に揺られている僕に、神様は話しかけてきた。

「どっちか決めた?」

僕は押し黙っていた。電車の中で声を出せないということ以上に、どちらを選ぶ勇気を持っていなかったからだ。

「あの子の言う、すっごい良い話が知りたいだろう。きっとそれを聞いたら君は喜ぶと思うよ。だから世界なんて無くなってもさ、二人で生きていけばいいじゃない。君を選んでくれた彼女を、一生大切にするって決めたんだろう」

神様の言うことはもっともだった。

「それとも、今までの生活を無くしたくない? 当り前に何の不便もなく生きていけるこの生活が無くなるのは怖いよね。全てのインフラが消えた世界で生きるのは、君には難しいだろうな」

神様の言うことはもっともだった。

「さあ、決めてくれよ。もう待てないんだ。悪いけど」

電車が目的地に着いた。人ごみを縫って、君と待ち合わせをしている場所へ向かう。神様の急かす声がずっと聞こえていた。僕の心臓は早鐘を打っていった。手がどんどん冷えていくのを感じる。

「神様の言う通りだ」

僕は立ち止まって言った。

「僕は彼女を守れない。この世界以外で」

そうだろうね、と満足げに神様が言った。

「君はあの子を見捨てた悪い奴じゃないよ。あの子と引き換えに世界を救ったヒーローだ」

それからもう神様は話しかけてこなかった。待ち合わせ場所に君はいなくて、連絡を取ろうにも、すべての連絡先が無くなっていた。

君がいなくなってからも、世界は何も変わらず続いている。平凡な僕は平凡なままで、ただ君がいなくなっただけだった。どうやら誰の記憶からも消えてしまったようだった。君との共通の友人に連絡を取っても、そんな子知らないと不気味がられるだけだし、いつか行った君の実家には知らない夫婦が住んでいた。

僕だけが、君のことを覚えている。君の居なくなった世界で、僕だけが君を知っているのだ。忘れてしまう前に、書き残しておかなければならないと思った。

君との平凡な出会いと日常、それから神様の話を描いた読み切りは、青年誌の大賞に選ばれ、雑誌に載った。それからなぜかトントン拍子に連載の話が決まり、僕は仕事を辞め、漫画家になった。子供の頃の夢が叶ったのだ。

ある日の仕事中、アシスタントの青年があの読み切りについて聞いてきた。モデルとなった人がいるのか、と言うのだ。

もちろん、と僕は言った。そしてそこで言葉を詰まらせた。思い出せないのだ。かつて一番大切だった人の、顔も、声も、思い出も、何も思い出せない。漫画に記された事実以上のことを、何も思い出せなかった。

どこかで、神様のケラケラという笑い声が聞こえた気がした。僕だけが消えればよかったのに。神様はそれを選ばせてくれなかった。それでも僕は、生きていかなければならない。君を選ばずして掴んだこの人生を、捨てることはもうできなかった。

おしまい

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