「お前にはわかるまい。父の躯に添えた俺の手から徐々に熱を奪われていくあの微かな時間が、お前にはわかるまい。世界の中心であった父が固く目を閉じ寸分も動かなくなり、永続的に続くと思った日々が突如として様相を変えたことを受け入れるにかかった時間が、お前にはわかるまい。
父が帰ってきた時、つまり冷たい躯が家に運び込まれた時、ずいぶん綺麗になったものだと俺は安堵した。路上で何か所も刃物で刺され、体中血まみれになって事切れた父のあの姿は、とてもじゃないが女子供に見せられるものじゃなかった。恨まれることの多かった父だ。よく冗談交じりに『夜道で刺されないようにしなければな』なんて言っていたが、まさか本当にそうなるとは思ってもみなかっただろう。汚らしく血にまみれていた父は、すっかり綺麗になって帰ってきた。だが、俗に言う眠ったような顔はしていなかった。それは明らかに父の死に顔であった。生前の面影が僅かにのみ残るその顔が俺に無理やり父の死を実感させた。
父の躯を前にした、母の涙は予想だにしないものであった。談笑するでもなし、喧嘩をするでもなし、まるで言葉を交わさない二人に、夫婦の絆という薄ら寒いものがあるようには思えなかったからだ。もちろん母は、声を荒げ泣くようなことはしていない。ただ静かに、振り始めの雨のような儚いしずくを一度きり流しただけだ。その一滴が妙に生々しくて、そんな涙を流すくらいならいっそオンオンと幼い子供のように泣いてくれた方が随分ましであった。そうすれば俺は、不出来な息子のこの俺は、肩を落とす年老いた母の背中を優しくさすることが出来たというのに。それすら許されなかった。俺は不出来な息子を脱する機会をとうとう得られなかったのだ。
父はいつも俺に厳しかった。自分の思う通りに、俺を歩ませようとした。少しでも道をそれれば、激しく折檻された。幼い俺は、当たり前に父の望みに応えようとした。暴力を恐れ、父の望んだ返答を心掛けた。だがそれも、父からすれば物足りないものであったらしい。口汚く罵られた回数を数えるのはとっくにやめた。俺は、そうだ。父が嫌いだった。父から守りもしなかった母もまた嫌いだった。だから今、父という道標を失った俺は、どうだ、悲しんでいるように見えるか? 違う。晴れ晴れしい気持ちだ。新しく生まれ変わったような気持ちだ。あの頃、父に怯えて過ごした俺は、父と一緒に死んでいったのだ。
……こんな話を聞かされても困るだろう。
お前はいつも、俺がこうして酒に酔って悲嘆にくれた時、飽きることなく励まし慰めてくれたな。俺はそれが心地よかった。と同時に狂おしいくらい疎ましかった。俺はお前が妬ましいよ。そしてそれと同じくらい、自分の浅ましさに嫌気がさしている。お前のような、少なくとも俺から見れば十分に幸せに見えるお前が、俺の孤独を消費しているように感じてならなかったのだ。いや、お前がそんな下卑た奴であるなんて、これっぽっちも思っていない。だからこの謂れのない焦燥は俺個人の問題だ。お前は立派な人間だ。それが妬ましい。俺は常日頃からお前の前ではせめてお前に恥じない人間であろうとした。それが苦しかった。俺はお前のように立派な人間でない。だがお前に認められればあるいは、そんなような人間に近づけると思っていたのだ。お前が俺を認めてくれなかった日などただの一度だってなかったのに。浅ましい。得られるはずのものを得ようともせず、得られないものを嘆いていた。そのくせ表層だけを必死に取り繕うこの俺の、なんと浅ましいことか。だからこそ、お前に己の醜悪さを吐き出している今、俺は大そう心地が良い。お前にはわかるまい。この焦燥と孤独が、お前にはわかるまい。何より父を失った俺の歓喜が、お前にはわかるまい。
これだけ醜態をさらしてなお、俺はお前に人生で一番の秘密を話したい。聞いてくれるか? いや、聞かなくてもいい。ただここに言葉だけ落としたいんだ。拾ってくれなくても構わない。ただどうしても、そうだな、この長話の落とし処とでも思ってくれればいい。
父を刺し殺したのは、この俺だ」

それから友人は、僕の返答を待たず、どこへともない夜の闇へと消えていった。その背中を決して忘れぬよう目に焼き付けた。友人の姿を、肩を並べ笑いあったかけがえのないその友人の姿を見るのは、今日が最後であろうと確信めいた気持ちがあったからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?