『老人と海』随想
ヘミングウェイが1952年に発表した小説『老人と海』の越前敏弥訳(角川文庫)を読んだ。
書評というのは、評者が、本を読みながらそこに書かれていない事を色々考え、その考えが本の内容とセットで語られることが、正当なのではないか、と主張するものであり、その主張の面白さが、すなわち書評の面白さなのだと思う。(もちろん殆どの評者は、自分の評など忘れて、本文を読んで欲しい、と明言したり、明言はしなくてもそういう雰囲気を出している。また、書評を読んだ人が、その本そのものを読みたくなるような書評が、良い書評だと、私も一応思う。しかし、どうもそれだけで書評について、全てを言い切った事にはならないような気がする。いや、この話はこの辺にしとこう)
『老人と海』を読みながら、私も、あれやこれやそこに書かれていない事が大量に頭に浮かび、時折現れる強烈なフレーズによって本文に引き戻されては、また別の想念にふけるということのくりかえしだった。
たとえばサンティアゴ(主人公)は、たびたび自らの「手」に語りかける。
私は「これは何の比喩だろうか」という風には考えがすすまず、シンプルに、「自分も自分の手に話しかけることがある」ということを思い、又、父が晩年、彼の指先について、よく話していたことを思い出した。
また、サンティアゴは、たびたび「運」のことを語る。いずれも名言のようでありつつ、その一歩手前のクオリティの言葉である。それが、読んでいて腑に落ちるのである。運について、悟ったようなレベルの言葉を言えるように(それも海上で死にかけているときに)なっているとしたら、その人は現実に存在しない人間なのではないだろうか。
それから、時折あらわれる強烈な、重たい言葉がある。サンティアゴは巨大カジキをしとめるが、それをサメに食われる。食おうとするサメを、彼は何頭も殺すが、ある二匹のサメを殺したあと彼は言う。「そこでさっきの仲間に会うといい。
いや、あれは母親だったのかもな」
しかし、さいごの部分までは、わりと平静な心で、私はこの本を読んでいた。
そこへ、観光客の描写が出てきた。この物語の中に出てくる、もっとも「物語から遠い」連中である。どちらかというと、私の隣に座っている、地下鉄御堂筋線の乗客(四十才くらいの女)に近い。
その観光客が、ふいに物語のさいごにあらわれて、サンティアゴがしとめた魚の骨をちらと見る。「あれは何?」
そして、それが、魚だと気づかず(あまりに大きいためだろう)、サメだと誤認し、「サメにあんなに立派な形の尻尾があるなんて!」とか言う。
ここを読んで、私はザーッと鳥肌が立った。
ヘミングウェイに、強烈な一撃を喰らわされたと思った。
なぜ鳥肌が立ったのだろう。ありきたりな説明をすれば、「外部の目」が物語の中に突然描かれることで、物語の現実味が一気に爆発的に高まった、ということになるだろうか。しかしどうもそれだけでもない気がする。
ともかく、本を読んで久々に鳥肌が立った。
堺筋本町駅前の、喫茶パパラギは、あまり長居すると叱られるので、この辺で出よう。トイレ行こう。
(了)