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文章を書くことは、世界の解像度を上げること。

 文章が面白い人には、共通点がある。

 それは「面白さを見つける天才」だということ。文章のうまさ、構成の絶妙さ、スラスラと読めてしまう文体。いわゆるテクニックが優れているから文章が面白いわけではない。彼らは、目の前の出来事を面白がる天才なのだ。

 面白いエッセイを読んでいると、些細なことも逃さずキャッチし、切り取り、文章に落とし込んでいることに驚く。

「門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。」

—『放浪記』林芙美子著
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 放浪記の序盤の一節。お店が並ぶ様子を「まるで貨物列車のようだ」と思い、道行く女性の姿に目を留める。

 ぼおっとしていたら、なんとも思わないし、何も気が付かない風景だろう。なにしろ「門司のように活気のある街」でも「長崎のように美しい街」でもないのだ。

 何も偉人を持ち出すまでもなく。文章が面白い人は見たもの聞いたことを、そのまま脳を素通りさせない。芸人さんがつまらない日常を面白くネタにできるのと、似ているのかもしれない。

 僕は、そんな、なんてことのない日常を面白がれる人に憧れる。僕にとって歩く景色は、ただの背景でしかなく、誰が見ても「キレイ」と思うものにしか目が向かない。世界を眺める解像度が、とても荒いのだ。

 だけど、文章を書くことはそんな世界を眺める解像度を少しだけ上げてくれるかもしれない。

 たとえば、カメラを片手に街を歩くと、街の姿は一変する。小さな花に気が付き、普段は気付きもしない路地裏にカメラを構えるようになる。

 子どもが生まれても街の姿は一変する。妊婦さんの多さに気が付き、ガチャガチャやアンパンマンが街にどれだけ溢れているかに驚く。

 同じように。文章を書くということも、世界を一変させる力があるのかもしれない。外の世界を注意深く観察させ、内面をこれでもかとかきまわすことになるのだから。

 文章のテクニックを磨くよりも、世界を面白がれる人になるべく、面白さの閾値を下げることが、僕には必要なのだろう。

では、また。

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