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「上手に卵焼きが焼けるスキル」よりも「家族が卵焼きを食べたいと思ってることに気がつく力」のほうが圧倒的に価値があるという話

いま仕事で、夫婦のための対話のシートをつくっています。最初は家事シェアシートって依頼だったのですが、そうではなくて「対話」にしむしょうと提案。
なぜなら家事にしろ、育児にしろこれからの時代、必要になるのはスキルではないのだろうと思うんです。

たとえば、「上手に卵焼きが焼けるスキル」よりも「家族が卵焼きを食べたいと思ってることに気がつく力」のほうが圧倒的に価値がある。
そして、その力ってけっして「察する能力」ではなくて「ちゃんと対話する力」ということなんだろうと思うのです。

以前読んだ「他者と働く」という本には、

対話とは「新しい関係性を構築すること」

とあります。家族において対話とは、論破することでも妥協することでもなくて関係性をつくっていくこと。

なので、夫婦の対話(議論)において結論はほとんどの場合どうでもいいと、ぼくは思っています。
結論がAだろうとBだろうと、そんなに関係ない。

たとえば、休みの日に遊園地へ行くのか、家でのんびり過ごすのか。
寿司を食べるのか、焼肉を食べるのか。
わが家で言えば京都へ移住するのか、鳥取へ移住するのか。

どっちだっていいんです。問題は、そこに至るまでの対話のなかで、お互いを認め合える関係性を構築できているのかどうか。

それができていないから、遊園地へ向かう渋滞で「やっぱり行かないで家にいればよかった!」や、家にいたらいたで「子どもが退屈してグズグズするから、公園来たけどつまらない。やっぱり遊園地行っておけばよかったんだ」なんてことになる。

対話は対話の先に価値があるんじゃなくて、対話の中にこそ価値があるのだと思うのです。


対話を通して、必要なことや大切なことをブラックボックス化しないようにする。
それだけで、家事シェアはずいぶんと進むものです。


では、また明日。

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