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好きであることに、理由なんてない

ふと、好きなこと、やりたいと思っていることに理由なんてないんだよなって思いました。

例えば、誰かを好きになったとき。
ルックスがタイプであるとか、趣味が合うとか、優しいとか、一緒にいて楽しいとか。その人自身のいいところであったり、自分との関係性の中で魅力に思うことを説明することはできる。

だけど、それらの条件がたとえなくなったとしても。
それでもその人のことを好きだったりする。

やりたいことであったり、夢であったりもやっぱり同じような側面がある

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今日、「なんで学校をつくろうと思ったんですか?」と改めて聞かれました。
つくろうと思ったきっかけや、そのための理由は色々とある。
自分の子ども時代からの学校への思いや、子育てを通して変わった価値観、教育への興味。

その時に話した想いはまぎれもない本音。
そして興味を持った本当のきっかけ。

だけど、話しながら自分の中で少し違和感を感じました。
ーーーちがう、そういうことじゃなくて、どう伝えたらいいんだろう?
と。

でも、言葉を重ねるほどに違和感は大きくなる。
味が決まらないからと、色々な調味料を加え続けて、結局まずくもないんだけど、美味しいとも言えない料理、そんなもどかしさ。

話を終えて、帰りの電車の中でもう一度会話を振り返ってみました。

その時、たったの一言でこのもどかしさを言い表せることに気が付いたのです。それは。

「やってみたいと思ってしまっているから」

限りなくシンプルな答え。
なんの説明にもなっていないのだけど、要するにそういうことなのです。

好きな人ができたとき、友人に「どこが好きなの? なんで好きなの?」と聞かれて答える答えが、その気持ちの1/100も言い表せないように、「なぜ、それをやりたいの?」という質問への核となる部分も、言葉ではなかなか言い表せないのかもしれない。

向いているとか、向いていないとか、できるとか、できないとか。
そういうことは一旦置いておいて。
「これをやるんだ」と思い続けていることで、そのものへの興味や愛情が増してくる。
だから、ある意味ではどこかで自分を勘違いさせてしまうと言うのは実は大切なのかもしれないと思うのです。この勘違いが自分にとっての夢や、やりたいことへの大きな原動力となるのだから。

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今日も、見に来てくれてありがとうございます。
今夜はいよいよ、2ヶ月の単身赴任を終えて妻が戻ってきます。そして、来週からはぼくが学校現場へ修行へ行く番。物事は少しずつ、だけど一歩ずつ進んでいます。わくわくと不安が3:7くらいで不安のほうが大きいですが、貴重な機会を楽しもうと思います。
ぜひ、明日もまた見に来て下さい。

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